無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

『彼女のいる背表紙』

『彼女のいる背表紙』(2009マガジンハウス)は、堀江敏幸のエッセイ集である。あとがきによれば、これらの四八編は平成一七年(2005)から二年の間、女性誌「クロワッサン」に連載されたものだ。『回送電車』シリーズも忘れがたいが、堀江のエッセイは、一編一編が上質な短編小説を読むように味わい深く、ゆっくりとした速度で読み手の心を魅了する。

 

「わたしは人に逢いたい」という一編は、詩人中野鈴子に寄せたもの。彼女が中野重治の妹であることを知る人は多くないが、こう書き出される。

 

ながいあいだ留守にしてがらんとした家に戻ってきたとき、あるいは仕事で何日も部屋に籠もって腑抜けた状態になったときなど、急に人恋しくなるときがある。性格の問題もあろうけれど、からっぽになった胸のうちをだれかと話をすることで埋めたいと思うのは、ごくふつうの反応ではあるだろう。人恋しさの「人」には、いろんな変数をあてはめることが可能だ。身近な家族や友人、会社の同僚や行きつけのお店の顔見知り。退屈だから、さみしいから、相手はどんな連中だってかまわない。こちらの都合に合わせて会ってくれて、何時間か話を聞いてくれればそれでいい。つまり辞書的にまとめると、なんとなく人に会いたい、いっしょにいたい、ということになる。

 

いろんな変数をあてはめることが可能な、人恋しさの「人」とはなんだろう。堀江は、「日々の暮らしのなかで人恋しいという場合の『人』には、ある程度の選別がなされているのではないだろうか。理由も方向性も漠然としているのに、気持ちと身体だけは他人に向かっている状況と、その『なんとなく』を取りはずした人恋しさのあいだには、途方もない距離がある」という。

 

つね日ごろから親しくしている人、頼りになる人に会いたいと願うのともそれはちがっていて、具体的に名指すことはできないものの、自分にとってとても大切な存在になりうる人物で、かつ、彼を、もしくは彼女を、恋しく思う資格があると確信できるくらいの努力を重ねたうえで、ようやく出会いの入口までいける、そのような「人」に対する厳しい恋しさは、生きていくために必要不可欠なものなのだ。

 

堀江がずっと夢見てきたのは、ただの純粋な「人」を、人恋しさの「人」に代入できないかということだった。そして、「なんと美しい夕焼けだろう」と題された中野鈴子の詩に出会ったのは、そんな思いを巡らしていたときだった。

 

なんと美しい夕焼けだろう

ひとりの影もない 風もない

平野の果てに遠く国境の山がつづいている

 

夕焼けは燃えている

赤くあかね色に

あのように美しく

わたしは人に逢いたい

 

逢っても言うことができないのに

わたしは何も告げられないのに

新しいこころざしのなかで

わたしはその人を見た

わたしはおどろいて立ちどまった

わたしは聞いた

ひとすじの水が

せせらぎのようにわたしの胸に音をたてて流れるのを

もはやしずかなねむりは来なかった

 

 そのことを人に告げることはできなかった

わたしはただいそいだ

ものにつまずき

街角をまがることを忘れて

わたしは立ちあがらねばならなかった

立ちあがれ 立ちあがれ

かなしみがわたしを追いたてた

 

わたしは

忘れることができない

昔もいまも

いまも昔のように

 

夕焼けは燃えている

あかね色に

あのように美しく

 

中野鈴子は、明治三九年(1906)、福井県坂井郡高椋村の地主の家に生まれている。中野重治が描いた孫蔵と勉次の「村の家」である。鈴子は、室生犀星を生涯の師と仰ぎ「一田アキ」の筆名で詩作を続けた。プロレタリア文学運動との関わりや二度の離婚、上京と帰郷を繰り返す波乱の生涯ののち、昭和三三年(1958)正月に永眠した。

 

堀江は、中野鈴子の詩を紹介した後、この一編をこう締めくくっている。

 

中野鈴子自身の文学活動や思想に深く結びついた表記ではあれ、やはり最初の「人」が口にされる瞬間の倍音に、いまでも純粋形態の人恋しさがある、という思い込みを棄てることができない。だが、ほんとうの人恋しさに置かれるべき「人」に、私はこの先、出会うことができるのだろうか。

ジャズより他に神はなし

平成二一年(2009)七月九日、平岡正明が亡くなった。享年六八歳。その日の朝日新聞夕刊に、四方田犬彦が追悼文を寄せていた。平成十三年(2001)の夏、四方田は平岡の著作が一〇〇冊に達した記念に、『ザ・グレーテスト・ヒッツ・オブ・平岡正明』を編み、芳賀書店からアンソロジーとして刊行した。

 

ある人にとって平岡さんはジャズ評論家である。別の人にとっては美空ひばりを論じ、山口百恵を菩薩に見立てた歌謡評論家であり、さらに別の人にとっては、戦後日本社会における犯罪と革命、差別と芸能を論じたり、中国人強制連行事件を検証するラディカルな知識人である。

 

私が平岡の著作に出会ったのは昭和四六年(1971)、三一書房から上梓された『ジャズより他に神はなし』だった。平岡の文章は、四方田が指摘するように「書くという行為そのものを大道芸として提示する」そのものだった。大学に戻ることを断念して無頼を気取り、京都のジャズ喫茶に入り浸っていた私は、平岡のこんな文章に鬱屈の心を癒していた。

 

これまでものを書くときに次の一人称単数形を用いてきた。

俺――スタンダード版。ジャズ論、映画論、状況論ほとんどすべて。

わたし――親しみが薄いか、原稿料の高いメディア。

余――犯罪論および形而上学

おいら――ナショナリズムおよび右翼思想論。

こちら――主に論争文。意識的に自分をかくし、指示代名詞を流用する。

これらを使いわけることによって気分の出かたがちがうのだ。主語の進入角度のちがいによってひきおこされる気分の諸相は、話の内容さえかえてしまうことがある。場が成立していないときの主格の進入角度の恣意性も、場の磁力におかされると強く制約される。入試試験でまず「おいら」はつかえない。

 

追悼文で四方田は、「俺のきんたまの使用法は四割が放尿用、一割が御婦人用、五割が思想用だ」という、『韃靼人ふうのきんたまのにぎりかた』(1980年刊)の著名な一文を取り上げ、「およそ戦後日本の文筆業者のなかで、かくも荒唐無稽な警句を吐いた人物が他に存在しただろうか」と書く。平岡正明の破天荒な生き様は、反骨のルポライター竹中労、平岡と同年の五月に鬼籍に入った自称「世界革命浪人」太田竜とともに、「三ばかゲバリスタ」と呼ばれた時代もあった。合掌

 

父の軍歴証明 二

父は、昭和二一年(1946)一月十七日、東部ニューギニア・ウエワク沖の武集(ムシュウ)島から病院船「高栄丸」で横須賀浦賀港に帰還した。昭和一四年三月の出征以来七年間日中戦争、太平洋戦争に現役兵として従軍した父が所属した「野戦機関砲第二五中隊」(通称・猛1225)部隊は、南方戦線に配置された第十八軍の直轄部隊で、部隊総人員二九八名のうち生還者は四名と記録※されている。

 

※昭和二三年七月、留守業務部南方課において復員業務のため調査した「東部ニューギニア第十八軍隷下部隊状況調」による。出典は福家隆『痛恨の東部ニューギニア戦』(平成五年・戦誌刊行会)。

 

父は復員後、陸軍の施設でマラリア治療や体力回復に努めながら、所属した部隊の「留守名簿」「生死不明者連名簿」「死亡者連名簿」「死亡事実証明書」などを作成している。また、部隊の戦歴を記した「部隊履歴表」や「ニューギニア概見図」、玉砕命令に伴う「ウエワク半島決戦要図」も提出している。一例として、部隊の編成から敗戦による復員完結までの記録を次に掲げる。

 

「野戦機関砲第二五中隊」部隊履歴表

 

昭和十六年八月一日  

  関総作命甲第(数字不明)号ニ依ル編成完結

昭和十六年八月一日~昭和十六年八月十三日

  満州国新京ニ於テ要地防空ニ従事

昭和十六年八月十三日~昭和十七年三月三十日

  東安省古城鎮ニ於テ飛行場擁護ニ従事

昭和十七年四月一日~昭和十七年十月三十日

  東安省平陽ニ於テ集積所擁護ニ従事

昭和十七年十一月十二日

  南方転用ノタメ「釜山港」出発

昭和十七年十一月三十日

  ニューブリテン島「南海港(ラポール)」上陸

昭和十七年十一月三十日~昭和十七年十二月十二日

  南海港ニ於テ泊地擁護

昭和十七年十二月十四日

  ニューギニア島「マンバレー」敵前上陸

昭和十七年十二月十四日~昭和十八年二月二八日

  「ブナ」「ギルワ」救援作戦及船舶工兵第五連隊

   船艇機動擁護 (軍司令官ヨリ感状授与)

昭和一八年三月一日~昭和一八年九月十四日

  「ラエ」ニ於テ防空戦闘及一部船艇機動擁護ニ従事

昭和一八年九月十四日

  「ラエ」転進作戦ニ参加 (軍司令官ヨリ感状授与)

昭和一八年十月三十日~昭和十九年五月二七日

  「ハンサ」ニ於テ防空戦闘ニ従事 (軍司令官ヨリ賞詞授与)

昭和十九年五月二七日

  「ウエワク」転進作戦

昭和一九年六月一日~昭和二十年五月十一日

  「ウエワク半島」守備部隊トシテ防空戦闘及地上戦闘ニ従事 

   玉砕ス(軍司令官、第五十一師団長ヨリ賞詞授与)

昭和二十年五月十二日~昭和二十年八月十五日

  「ウエワク」周辺及ビ山南地区、南方アレキサンダー山系

   地上邀撃戦闘ニ従事 終戦ニ至ル

昭和二十年十月十三日

   終戦ニ依ル「ウエワク」「武集島」ニ集結完了

昭和二十一年一月十七日

   広島県大竹港(一部浦賀)ニ復員完結

   地方世話部別各一部提出済

 

   ※旧字体はすべて新字に変更

 

 

昭和十七年十月十四日 釜山港出発

     十一月十四日 ニューギニア マンハレー上陸

昭和二一年一月 七日  ムシュ島出発

     一月十七日 浦賀港上陸

     一月十八日 復員

 

父の軍歴証明で記されているのは、昭和十七年二月一日に軍曹となり、昭和十九年二月一日に曹長となる昇進事実の他には、この五項目だけだ。

 

知命を迎える頃から、父(従軍中は赤井利一)の戦争体験について調べ始めた。現在のようなネット社会を迎えるまでは、ニューギニア戦を知るにはまずは文献に当たることだった。防衛庁戦史室が編纂した戦史叢書『南太平洋陸軍作戦(一)〜(五)』(朝雲新聞社)を基本に、服部卓四郎の明治百年史叢書三五『大東亜戦争全史』(1965原書房)を参照した。記述の精緻さでは、田中宏巳の『マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録』(2009ゆまに書房)にも示唆を受けた。あとは、三〇冊ほどの従軍した個人の戦記である。

個人の手になる、いわゆるニューギニア戦記や関連した部隊史は知見の限りでも一〇〇冊は超える。自費出版にとどめられたものを含めると、その数は計り知れない。私が読んだ新刊書店・古書店などで一般に入手できるものの一例をあげると次のようになる。

 

小岩井光夫『ニューギニア戦記』

昭和二八年(1953) 日本出版協同株式会社

星野一雄『ニューギニア戦 追憶記』

昭和五七年(1982)発刊:戦誌刊行会 発売元:星雲社

石塚卓三『ニューギニア東部最前線』

昭和五六年(1981) 叢文社

福家 隆『痛恨の東部ニューギニア戦 知られざる地獄の戦場

平成五年(1995) 発行:戦誌刊行会 発売:星雲社

御田重宝『人間の記録 東部ニューギニア戦・前篇』『同・後篇』

昭和五二年(1977)発行現代史出版会 発売:徳間書店

鈴木正己『東部ニューギニア戦線地獄の戦場を生きた一軍医の記録』

昭和57年(1982) 発行:戦誌刊行会 発売:星雲社

尾川正二『東部ニューギニア戦線 棄てられた部隊』

平成二年(1992) 図書出版社

飯塚栄地『パプアの亡魂 東部ニューギニア玉砕秘録』

昭和三七年(1962) 日本週報社

田中俊男『陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦』

平成八年(1998) 発行:戦誌刊行会 発売:星雲社

栗崎ゆたか『地獄のニューギニア戦線』

見捨てられた軍団秘蔵写真で知る近代日本の戦歴[11]

平成三年(1993) フットワーク出版社

地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記』

『丸』別冊・太平洋戦争証言シリーズ[2]

昭和六一年(1986) 潮書房

柳沢玄一郎『軍医戦記 生と死のニューギニア戦』

平成一五年(2003) 光人社NF文庫

※元本「あ々南十字の星」(昭和五四年・神戸新聞出版センター)

佐藤弘正『ニューギニア兵隊戦記 陸軍高射砲隊兵士の生還記』

平成一二年(2000) 光人社NF文庫

※元本「ラエの石」(平成七年・光人社)

間嶋 満『地獄の戦場 ニューギニア戦記』

平成八年(1996) 光人社NF文庫

※単行本(昭和六三年・光人社)

菅野 茂 『七%の運命 東部ニューギニア戦線密林からの生還』

平成一八年(2006) 光人社NF文庫

※元本(平成一五年・東京経済)

島田覚夫『私は魔境に生きた』

終戦も知らずニューギニアの山奥で原始生活十年

平成十九年(2007) 光人社NF文庫

※元本(昭和六一年・ヒューマンドキュメント社)

西村誠『太平洋戦跡紀行 ニューギニア

平成一八年(2006) 光人社

小松茂朗『愛の統率 安達二十三』

平成元年(1989) 光人社

 

陸軍での階級や所属部隊、戦歴はさまざまに異なるが、すべてに地下茎のように貫く思いは、補給を絶たれた「地獄」の戦場を「棄てられた」部隊の一員として、ときには「玉砕」を命じられ、生ける屍の如く生還した男たちの回顧記だ。

野田正彰の問い

毎年八月が近づくと、新聞やテレビを筆頭に各メディアは年を重ねる毎に減り続ける戦争体験者の声や、その体験の継承について特集する。今年は戦後七三年で、実際に戦場にかり出された戦争体験者の多くは九〇歳を超える。私はこの時期になると必ず思い出す本がある。それは、臨床精神科医の野田正彰が世に問うた『戦争と罪責』(1998岩波書店)と『虜囚の記憶』(2009岩波書店)だ。

 

ブログをはじめて間もなく、平成一七年(2005年)三月二四日に私はこんな一文を書き付けている。

 

平成十年(1998)八月に上梓された野田正彰の『戦争と罪責』は、先の日中戦争や太平洋戦争の時代に、軍医や士官、特務士官や兵士として従軍し、「中国人強制連行」「捕虜虐殺」「生体解剖」といった戦争犯罪に関わった人々の聴き取り調査を重ねたレポートである。

 

「私は太平洋戦争の末期に生まれ、少年期を戦後民主主義の昂揚のなかで育ち、次第に戦後の理念が現実主義の高唱のもとに排除されていく時代に青年期を送り、高度経済成長の傍らで精神科医となり、知識人となった。時代に批判的であり続けようとしてきた私も中年をすぎ、自分の感情の貧しさをしばしば感じる。もっと豊かな想像力、他者への感情移入をどうして持ち得ないのか。なぜいつも出来事や知識を重視し、そこに生起する感情の流れや動機にもっと関心を持たないのか。自分の感情にしても、他者の感情にしても、感情を聴き取ることは、物事の成就や帰結を知ることよりも、二次的であると思ってしまうのは何故か。生の充実は知識や意志にあるのではなく、感情の流れにあるというのに」

 

臨床精神科医である野田正彰のこの表明に、再読して改めて感銘を受けた。こんな風に人と接することができれば、無用の諍いは生まれないだろう。

 

この思いは今でも変わることはないが、時代は、社会は明らかに変化している。確かな言葉は忘れてしまったが、あの頃、「父たちの世代が犯した過ちを、なんで私たちの世代が責任を取らなければならないの」と言い放つ女性の国会議員がいたことを思い出す。昨今の歴史修正主義の動きや聞くに堪えないヘイトスピーチの跋扈を見ると、時代はますます病んでいると感じる。

 

『戦争と罪責』から十年を経て、平成二一年に刊行された『虜囚の記憶』は、月刊誌「世界」(岩波書店)に「虜囚の記憶を贈る」と題して連載された文章をまとめたものである。私は書店で手に取って目次を眺めているうちに、この十年間という時間の重さにある感慨を覚えずにはいられなかった。

 野田正彰は「あとがき」で書いている。

加害兵士についての分析、『戦争と罪責』(1998岩波書店)を出した後、私はいつか一五年戦争の被害者についてもまとめたいと考えていた。だがあまりにも多くの戦争犯罪があり、被害者のカテゴリーも多い。そんなことが可能とは、とても思えなかった。それでも九〇年代末から二〇〇〇年代初めにかけて、中国人強制連行と従軍慰安婦の裁判判決が続き、遠い過去の出来事とか、サンフランスシスコ講和条約で解決済みとか、一九七二年の日中共同声明で戦争被害の請求権はなくなっているとかの理由によって、被害者原告の訴えを斥けていくのを見て、何とかしなければならないと焦るようになった。戦争被害者は過去の犯罪について訴えている以上に、今なお苦しんでいる。裁判官は勿論のこと、裁判を報道する記者も、訴えられている日本国の国民のほとんどが、そのことを分かっていないようだった。今苦しんでいることを知らないで、どうして判決文が書けるのか。知らないで、どうして判決文の解説ができるのか。私はこれまで会ってきた戦争被害者の生き方を想い、想像力の欠如に唖然としていた。本書はその批判を、一人ひとりの聞き取りから深めようとしたものである。

 

ここから何を受け取るかは自由だが、「六十余年前の侵略戦争についての無反省だけではなく、戦後の六十数年間の無反省、無責任、無教育、歴史の作話に対しても、私たちは振り返らねばならない。戦後世代は、先の日本人が苦しめた人びとの今日に続く不幸を知ろうとしなかったことにおいて、戦後責任がある」と言い切る野田の言葉には、虚心に耳を傾けることが必要なのではないだろうか。

 

明日は七三回目の敗戦記念日だ。昭和二七年(1952)にはじまった全国戦没者追悼式が行われ、何の意味もない内閣総理大臣の式辞と天皇の「おことば」が述べられる。私は毎年、野田が言う「先の日本人が苦しめた人びとの今日に続く不幸を知ろうとしなかったことにおいて、戦後責任がある」という思いで黙祷する。

 

 

「便水願います」

自分からは見ることはできないが、相手からは見られている。ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』に出てくる監禁システム、ベンサムの考案した「一望監視施設」(パノプティコン)は、そんな不安の原因を明らかにしている。

 

現在の状況は知るよしもないが、一九六〇年代末の東京・新宿の淀橋警察署留置所(代用監獄)には、そのシステムが導入されていた。扇形に設計された建物は、要の位置に監視台があり、各房をひと目で見渡すことができた。各房内には水洗式の便所が設置され、さすがにそこだけは人権配慮か、排泄のためにしゃがむと隠れる衝立のような仕切壁が設けられていた。看守の目からは頭だけが見える仕組みだった。

 

用便が終わると、監視台に向かってこう叫ばなければならなかった。「二四房、便水願います」。なかなか声の出せない私に、同房のポン引きさんは言った。「ちょっとガクレンさんよお、早く流してもらわねえと臭くてかなわねえ。気取ってないで、大きな声でたのみなよ」。おかげで声は出るようになったが、二十日間ほどの拘留の間、さすがに大便はできなかった。

 

昭和四四年(1969)の冬、東大安田講堂闘争の前後に、私は二度不覚にも検挙されている。一度目は一月九日に本郷構内で民青との内ゲバの途中検挙され板橋区の志村署に勾留された。どうせ三泊四日とタカをくくっていたが、その見通しは甘く二十日間ほど拘留され安田講堂闘争には参加できなかった。二度目は二月四日の沖縄ゼネスト連帯デモで旗持ちを務めたが、指揮者とともに検挙され、淀橋署に勾留されたというわけだ。

 

当時の私は十九歳の少年だった。初犯時は未成年ということで不起訴になり、保護観察処分が科されたが、二度目は保護観察中の再犯で反省の意図がないと東京少年鑑別所に送致された。五〇年経った今振り返ると、鑑別所に収容された時は、それまでの内ゲバに明け暮れた闘争の日々から解放され、心身ともに安堵の気分でいっぱいだった気がする。当然日々の生活に制限はあったが、入所当初は独房を与えられ、自由時間には読書することも許された。森鷗外の『青年』などを読んだのもその時だ。

 

三月に家庭裁判所の審判を受け、再犯の見込はないと判断され私は不処分となって解放されるのだが、結局は孤立を深める大学キャンパスには戻れず、翌昭和四五年(1970)四月に除籍となった。

 

関川夏央・讃

あくまで私は一人の読者に過ぎないが、なぜか特別の親近感を持ってその作品に接する作家が何人かいる。荒川洋治桐山襲佐藤泰志永山則夫村上春樹たち。作家ではないが、私の二十歳の誕生日に自ら命を絶った高野悦子も忘れ難い。共通するのは昭和二四年生まれである。関川夏央も昭和二四年生まれで、私は彼について幾度が拙いブログで紹介してきた。

 

(平成十七年(2005)五月二五日)

「68ers・シックスティエイターズ」

 

関川夏央の『石ころだって役に立つ』が文庫になった。目次にある「68ers・シックスティエイターズ」という言葉に、初めてそのエッセイに出会ったときの記憶がよみがえった。

 「(中略)スチールの組立て本棚と、読みもしない吉本隆明と、ジンライムのセットだけは、たいていの学生の部屋にあった」

「一九七〇年頃?」

「六八年から七〇年代のはじめ頃まで」

「あ、いやな時代」

「六八年頃に、コドモとオトナの間だった連中を、シックスティエイターというんだってさ」

「あ、かなしい言葉」

彼女はそういって含み笑った。

 

ここに書かれた事柄の、ジンライムのセット以外は共感できる。スチールの本棚には、おそらく次のような本が並んでいたとおもう。

 谷川雁『原点が存在する』

 吉本隆明『言語にとって美とは何か』

 埴谷雄高『幻視のなかの政治』

 橋川文三『日本浪漫派批判序説』

 磯田光一『殉教の美学』

 桶谷秀昭『近代の奈落』

 羽仁五郎『都市の論理』

 モーリス・ブランショ『文学空間』

 J.P.サルトル『想像力の問題』

 アンドレ・ブルトンシュールレアリスム宣言』

 等々。

 

昭和二四年(1949)生まれの関川夏央は、昭和四三年(1968)に新潟から上京した。上智大学で演劇に関わり、幾度かの失恋をした。彼のことを昭和生まれの明治人と看破したのは、伊藤比呂美だったか。

 

(平成十七年(2005)五月二六日)

懲役一八年

関川夏央は、エッセイの名手であるとともに、優れた短編小説の書き手である。時代を描くエッセイと、フィクションを交互に配した『砂のように眠る』が、その代表作品集といえるだろうか。

団塊世代のセンチメントかも知れない。自虐的という声も聞こえぬではない。だが、彼のエッセイに通底する、そこはかとないユーモアやペーソスは、殺伐とした今の時代には得難いものである。

昭和五〇年(1975)、二五歳の時彼は結婚していた。わけあって別れることになったとき、彼女は最後にこういった。「あなたはオトナになるまで再婚なんかしちゃ駄目」。どれくらい駄目だろうと尋ねる彼に、彼女は「懲役一八年」と答える。もちろん、安藤昇主演の映画が下敷きだ。

そのエッセイを関川はこう締めくくる。「わたしは内心、十年もたてば仮釈放だなとタカをくくっていたのだが、案に相違して満期に至っても出所できず、すでに懲役は二十年の長きにおよんでいるのである。」(『中年シングル生活』中の「春は小石さえあたたかい」より)

 

(平成十八年(2006)三月二日)

『おじさんはなぜ時代小説が好きか』

 

関川夏央の『おじさんはなぜ時代小説が好きか』は、岩波書店から「ことばのために」と題された叢書の一冊だ。荒川洋治平田オリザ加藤典洋と続いてきたシリーズも、これで高橋源一郎の『大人にはわからない日本文学史』と、五人の共著となる『言葉の見本帖』を残すのみとなった。

 

博覧強記の関川が取り上げる時代小説作家は、主に五人。山本周五郎吉川英治司馬遼太郎藤沢周平山田風太郎だ。もちろん、この五人にとどまるわけはなく、長谷川伸村上元三、また隆慶一郎宮部みゆきまでへの射程がある。中里介山柴田錬三郎五味康祐といった剣豪小説も外せない。

 

(平成二〇年(2008)六月五日)

家族の昭和

 

○ブログを再開したらしいね。

  • 浅学非才のこんなブログにも、楽しみにしてくれている読者が五人いることが分かったので、また頑張ってみようと。

○中断していたわけは何なんだ?

  • 一言で言うと、ゆとりのなさ。それと、ブログへの根本的な疑問もあった。ろくに論証もしないで書くことは、印象批評の域を出ないとか、つまらぬ私見を、不特定多数に垂れ流していいのかという反省もあったんだ。

○だけど、それがネット、ブログの世界だろう。マナーを守って自分の考えを公開するなら、遠慮することはないんじゃないか。心の優しい五人がいることだし、君の考えがつまらないか、判断は彼たちに委ねればいい。

  • そうだね。批判は書くけど、他人を誹謗中傷することは禁じるのが初めに決めたことだから、これからもそうしようと思う。

 ○君がファンの関川夏央の新刊が出たね。

  • 『家族の昭和』(2008新潮社)だろ、もちろん早速読んださ。「昭和」を語らせたら、関川の前に出るやつはいない、とぼくは思う。『砂のように眠るーむかし「戦後」という時代があった 』(1993新潮社)は戦後世代のノンフィクションの金字塔だし、何度読み返しても泣けてくる。『昭和時代回想』(1999NHK出版)、『昭和が明るかった頃』(2002文藝春秋)と、彼は昭和を描き続けてきた。司馬遼太郎亡き後は、その役割を担うのは関川をおいてはないと思っている。

○ずいぶんほめるじゃないか。だから、今度の本の腰巻きに、「回想」はもういい。昭和を「歴史」に、とあるのか。

  • 関川は、「今年は昭和八三年」といいたいくらい昭和人を自認している。平成に変わってふた昔、そろそろ「昭和」を対象化しようというのが、関川の考えたことなんだろう。あとがきにも書いている。個人の二十年前は、もはや「歴史」だ。しかし、感傷的「回想」が、おうおうにして「歴史化」をさまたげる。社会の三十年前は「歴史化」されるべきだ。なのに、なかなかそうならない。とくに日本社会でそれをはばむのは。個人の感傷的「回想」の集合である。私には、文芸表現を「歴史」として読み解きたいという希望が、かねてからある。そこで今回は、昭和時代を「家族」という切断面で見ることを試みた。文芸表現とは言語表現全体にわたり、映像作品をも含む。

○今度の本は、大きく三部構成で、それぞれに「『戦前』の夜」、「女性シングルの昭和戦後」、「退屈と『回想』」と副題がついている。

○そもそもこの本が刊行されたのは昭和十年。山本有三の誘いで、吉野が新潮社の「日本小国民文庫」の編集に携わるようになってからだ。戦後になって、再編集されて復刊されたのが昭和三一年のこと。関川もいっているように、われわれがこの本と出会ったのは、昭和三〇年代の半ばだね。

 

 

「Who I Am」

鮎川信夫の『宿恋行』に「Who I Am」という詩がある。

 

まず男だ

これは間違いない

 

貧乏人の息子で

大学を中退し職歴はほとんどなく

軍歴は傷痍期間を入れて約二年半ほど

現在各種年鑑によれば詩人ということになっている

 

不動産なし

貯金は定期普通預金合わせて七百万に足りない

日々の出費は切りつめて約六十万

これではいつも火の車だ

 

身長百七十四糎体重七十粁はまあまあだが

中身はからっぽ

学問もなければ専門の知識もない

かなりひどい近視で乱視の

なんと魅力のない五十六歳の男だろう

背中をこごめて人中を歩く姿といったら

まるで大きなおけらである

 

ずいぶんながく生きすぎた罪だ

自分でもそう思い人にもそう思われているのに

一向に死ぬ気配を見せないのはどういうわけか

とことんまで生きる気なんだろうおまえは

罪を受けつづけることに満足をおぼえるマゾヒストなんだ

 おまえは

 

どうしょうもないデラシネ

故郷喪失者か

近親相姦者か

パラノイアック・スキゾフレニック症

近代人のなれの果て

電話の数字にもふるさとを感じ

おまえをおとうさんと呼んでいる娘を裸にし

おもちゃにすることもできるのである

 

世上がたりに打明ければ

一緒に寝た女の数は

記憶にあるものだけで百六十人

千人斬りとか五千人枕とかにくらべたら

ものの数ではないのかもしれないが

一体一体に入魂の秘術をつくしてきたのだ

 

有難いことにどんな女にもむだがなかったから

愛を求めてさまよい

幻の女からはどんどん遠ざかってしまった

 

はじめから一人にしておけばよかったのかもしれない

悲しい父性よ

おまえは誰にも似ていない

 

自分を思い出すのに

ずいぶん手間暇のかかる男になっている

 

『宿恋行』が思潮社から刊行されたのは昭和五三年(1978)で、私は二十代最後の年を迎えていた。横浜郊外のアパートに妻と三歳になる長男と住み、二人目の子を授かろうとしていた。その一方で、二三歳の夏から勤め始めた仕事に行き詰まり、悶々とした日々を送っていた。

 

鮎川のこの晩年の韜晦とも思える詩に共感を覚えたのは、結局勤めは辞して大阪に戻り、広告制作会社の勤めを経て、個人事務所として仕事を始めた四十を過ぎた頃だ。

 

 背中をこごめて人中を歩く姿といったら

 まるで大きなおけらである

 

その頃の同僚に、この詩句と真逆の歩き方をする男がいた。胸をはり、背筋を伸ばして大股で歩く姿に私は驚嘆した。二十歳の頃から、背を丸めて路地裏ばかりを徘徊していた私には、とてもできない芸当だった。

 

 世上がたりに打明ければ

 一緒に寝た女の数は

 記憶にあるものだけで百六十人

 千人斬りとか五千人枕とかにくらべたら

 ものの数ではないのかもしれないが

 一体一体に入魂の秘術をつくしてきたのだ

 

「百六十人」は、それまで鮎川が発表した詩の数をいう。八年後の昭和六一年(1986)に最後の詩集『難路行』を上梓し、鮎川信夫は不帰の人となった。