無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

「Who I Am」

鮎川信夫の『宿恋行』に「Who I Am」という詩がある。

 

まず男だ

これは間違いない

 

貧乏人の息子で

大学を中退し職歴はほとんどなく

軍歴は傷痍期間を入れて約二年半ほど

現在各種年鑑によれば詩人ということになっている

 

不動産なし

貯金は定期普通預金合わせて七百万に足りない

日々の出費は切りつめて約六十万

これではいつも火の車だ

 

身長百七十四糎体重七十粁はまあまあだが

中身はからっぽ

学問もなければ専門の知識もない

かなりひどい近視で乱視の

なんと魅力のない五十六歳の男だろう

背中をこごめて人中を歩く姿といったら

まるで大きなおけらである

 

ずいぶんながく生きすぎた罪だ

自分でもそう思い人にもそう思われているのに

一向に死ぬ気配を見せないのはどういうわけか

とことんまで生きる気なんだろうおまえは

罪を受けつづけることに満足をおぼえるマゾヒストなんだ

 おまえは

 

どうしょうもないデラシネ

故郷喪失者か

近親相姦者か

パラノイアック・スキゾフレニック症

近代人のなれの果て

電話の数字にもふるさとを感じ

おまえをおとうさんと呼んでいる娘を裸にし

おもちゃにすることもできるのである

 

世上がたりに打明ければ

一緒に寝た女の数は

記憶にあるものだけで百六十人

千人斬りとか五千人枕とかにくらべたら

ものの数ではないのかもしれないが

一体一体に入魂の秘術をつくしてきたのだ

 

有難いことにどんな女にもむだがなかったから

愛を求めてさまよい

幻の女からはどんどん遠ざかってしまった

 

はじめから一人にしておけばよかったのかもしれない

悲しい父性よ

おまえは誰にも似ていない

 

自分を思い出すのに

ずいぶん手間暇のかかる男になっている

 

『宿恋行』が思潮社から刊行されたのは昭和五三年(1978)で、私は二十代最後の年を迎えていた。横浜郊外のアパートに妻と三歳になる長男と住み、二人目の子を授かろうとしていた。その一方で、二三歳の夏から勤め始めた仕事に行き詰まり、悶々とした日々を送っていた。

 

鮎川のこの晩年の韜晦とも思える詩に共感を覚えたのは、結局勤めは辞して大阪に戻り、広告制作会社の勤めを経て、個人事務所として仕事を始めた四十を過ぎた頃だ。

 

 背中をこごめて人中を歩く姿といったら

 まるで大きなおけらである

 

その頃の同僚に、この詩句と真逆の歩き方をする男がいた。胸をはり、背筋を伸ばして大股で歩く姿に私は驚嘆した。二十歳の頃から、背を丸めて路地裏ばかりを徘徊していた私には、とてもできない芸当だった。

 

 世上がたりに打明ければ

 一緒に寝た女の数は

 記憶にあるものだけで百六十人

 千人斬りとか五千人枕とかにくらべたら

 ものの数ではないのかもしれないが

 一体一体に入魂の秘術をつくしてきたのだ

 

「百六十人」は、それまで鮎川が発表した詩の数をいう。八年後の昭和六一年(1986)に最後の詩集『難路行』を上梓し、鮎川信夫は不帰の人となった。