無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

『彼女のいる背表紙』

『彼女のいる背表紙』(2009マガジンハウス)は、堀江敏幸のエッセイ集である。あとがきによれば、これらの四八編は平成一七年(2005)から二年の間、女性誌「クロワッサン」に連載されたものだ。『回送電車』シリーズも忘れがたいが、堀江のエッセイは、一編一編が上質な短編小説を読むように味わい深く、ゆっくりとした速度で読み手の心を魅了する。

 

「わたしは人に逢いたい」という一編は、詩人中野鈴子に寄せたもの。彼女が中野重治の妹であることを知る人は多くないが、こう書き出される。

 

ながいあいだ留守にしてがらんとした家に戻ってきたとき、あるいは仕事で何日も部屋に籠もって腑抜けた状態になったときなど、急に人恋しくなるときがある。性格の問題もあろうけれど、からっぽになった胸のうちをだれかと話をすることで埋めたいと思うのは、ごくふつうの反応ではあるだろう。人恋しさの「人」には、いろんな変数をあてはめることが可能だ。身近な家族や友人、会社の同僚や行きつけのお店の顔見知り。退屈だから、さみしいから、相手はどんな連中だってかまわない。こちらの都合に合わせて会ってくれて、何時間か話を聞いてくれればそれでいい。つまり辞書的にまとめると、なんとなく人に会いたい、いっしょにいたい、ということになる。

 

いろんな変数をあてはめることが可能な、人恋しさの「人」とはなんだろう。堀江は、「日々の暮らしのなかで人恋しいという場合の『人』には、ある程度の選別がなされているのではないだろうか。理由も方向性も漠然としているのに、気持ちと身体だけは他人に向かっている状況と、その『なんとなく』を取りはずした人恋しさのあいだには、途方もない距離がある」という。

 

つね日ごろから親しくしている人、頼りになる人に会いたいと願うのともそれはちがっていて、具体的に名指すことはできないものの、自分にとってとても大切な存在になりうる人物で、かつ、彼を、もしくは彼女を、恋しく思う資格があると確信できるくらいの努力を重ねたうえで、ようやく出会いの入口までいける、そのような「人」に対する厳しい恋しさは、生きていくために必要不可欠なものなのだ。

 

堀江がずっと夢見てきたのは、ただの純粋な「人」を、人恋しさの「人」に代入できないかということだった。そして、「なんと美しい夕焼けだろう」と題された中野鈴子の詩に出会ったのは、そんな思いを巡らしていたときだった。

 

なんと美しい夕焼けだろう

ひとりの影もない 風もない

平野の果てに遠く国境の山がつづいている

 

夕焼けは燃えている

赤くあかね色に

あのように美しく

わたしは人に逢いたい

 

逢っても言うことができないのに

わたしは何も告げられないのに

新しいこころざしのなかで

わたしはその人を見た

わたしはおどろいて立ちどまった

わたしは聞いた

ひとすじの水が

せせらぎのようにわたしの胸に音をたてて流れるのを

もはやしずかなねむりは来なかった

 

 そのことを人に告げることはできなかった

わたしはただいそいだ

ものにつまずき

街角をまがることを忘れて

わたしは立ちあがらねばならなかった

立ちあがれ 立ちあがれ

かなしみがわたしを追いたてた

 

わたしは

忘れることができない

昔もいまも

いまも昔のように

 

夕焼けは燃えている

あかね色に

あのように美しく

 

中野鈴子は、明治三九年(1906)、福井県坂井郡高椋村の地主の家に生まれている。中野重治が描いた孫蔵と勉次の「村の家」である。鈴子は、室生犀星を生涯の師と仰ぎ「一田アキ」の筆名で詩作を続けた。プロレタリア文学運動との関わりや二度の離婚、上京と帰郷を繰り返す波乱の生涯ののち、昭和三三年(1958)正月に永眠した。

 

堀江は、中野鈴子の詩を紹介した後、この一編をこう締めくくっている。

 

中野鈴子自身の文学活動や思想に深く結びついた表記ではあれ、やはり最初の「人」が口にされる瞬間の倍音に、いまでも純粋形態の人恋しさがある、という思い込みを棄てることができない。だが、ほんとうの人恋しさに置かれるべき「人」に、私はこの先、出会うことができるのだろうか。