無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

野田正彰の問い

毎年八月が近づくと、新聞やテレビを筆頭に各メディアは年を重ねる毎に減り続ける戦争体験者の声や、その体験の継承について特集する。今年は戦後七三年で、実際に戦場にかり出された戦争体験者の多くは九〇歳を超える。私はこの時期になると必ず思い出す本がある。それは、臨床精神科医の野田正彰が世に問うた『戦争と罪責』(1998岩波書店)と『虜囚の記憶』(2009岩波書店)だ。

 

ブログをはじめて間もなく、平成一七年(2005年)三月二四日に私はこんな一文を書き付けている。

 

平成十年(1998)八月に上梓された野田正彰の『戦争と罪責』は、先の日中戦争や太平洋戦争の時代に、軍医や士官、特務士官や兵士として従軍し、「中国人強制連行」「捕虜虐殺」「生体解剖」といった戦争犯罪に関わった人々の聴き取り調査を重ねたレポートである。

 

「私は太平洋戦争の末期に生まれ、少年期を戦後民主主義の昂揚のなかで育ち、次第に戦後の理念が現実主義の高唱のもとに排除されていく時代に青年期を送り、高度経済成長の傍らで精神科医となり、知識人となった。時代に批判的であり続けようとしてきた私も中年をすぎ、自分の感情の貧しさをしばしば感じる。もっと豊かな想像力、他者への感情移入をどうして持ち得ないのか。なぜいつも出来事や知識を重視し、そこに生起する感情の流れや動機にもっと関心を持たないのか。自分の感情にしても、他者の感情にしても、感情を聴き取ることは、物事の成就や帰結を知ることよりも、二次的であると思ってしまうのは何故か。生の充実は知識や意志にあるのではなく、感情の流れにあるというのに」

 

臨床精神科医である野田正彰のこの表明に、再読して改めて感銘を受けた。こんな風に人と接することができれば、無用の諍いは生まれないだろう。

 

この思いは今でも変わることはないが、時代は、社会は明らかに変化している。確かな言葉は忘れてしまったが、あの頃、「父たちの世代が犯した過ちを、なんで私たちの世代が責任を取らなければならないの」と言い放つ女性の国会議員がいたことを思い出す。昨今の歴史修正主義の動きや聞くに堪えないヘイトスピーチの跋扈を見ると、時代はますます病んでいると感じる。

 

『戦争と罪責』から十年を経て、平成二一年に刊行された『虜囚の記憶』は、月刊誌「世界」(岩波書店)に「虜囚の記憶を贈る」と題して連載された文章をまとめたものである。私は書店で手に取って目次を眺めているうちに、この十年間という時間の重さにある感慨を覚えずにはいられなかった。

 野田正彰は「あとがき」で書いている。

加害兵士についての分析、『戦争と罪責』(1998岩波書店)を出した後、私はいつか一五年戦争の被害者についてもまとめたいと考えていた。だがあまりにも多くの戦争犯罪があり、被害者のカテゴリーも多い。そんなことが可能とは、とても思えなかった。それでも九〇年代末から二〇〇〇年代初めにかけて、中国人強制連行と従軍慰安婦の裁判判決が続き、遠い過去の出来事とか、サンフランスシスコ講和条約で解決済みとか、一九七二年の日中共同声明で戦争被害の請求権はなくなっているとかの理由によって、被害者原告の訴えを斥けていくのを見て、何とかしなければならないと焦るようになった。戦争被害者は過去の犯罪について訴えている以上に、今なお苦しんでいる。裁判官は勿論のこと、裁判を報道する記者も、訴えられている日本国の国民のほとんどが、そのことを分かっていないようだった。今苦しんでいることを知らないで、どうして判決文が書けるのか。知らないで、どうして判決文の解説ができるのか。私はこれまで会ってきた戦争被害者の生き方を想い、想像力の欠如に唖然としていた。本書はその批判を、一人ひとりの聞き取りから深めようとしたものである。

 

ここから何を受け取るかは自由だが、「六十余年前の侵略戦争についての無反省だけではなく、戦後の六十数年間の無反省、無責任、無教育、歴史の作話に対しても、私たちは振り返らねばならない。戦後世代は、先の日本人が苦しめた人びとの今日に続く不幸を知ろうとしなかったことにおいて、戦後責任がある」と言い切る野田の言葉には、虚心に耳を傾けることが必要なのではないだろうか。

 

明日は七三回目の敗戦記念日だ。昭和二七年(1952)にはじまった全国戦没者追悼式が行われ、何の意味もない内閣総理大臣の式辞と天皇の「おことば」が述べられる。私は毎年、野田が言う「先の日本人が苦しめた人びとの今日に続く不幸を知ろうとしなかったことにおいて、戦後責任がある」という思いで黙祷する。