無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

「便水願います」

自分からは見ることはできないが、相手からは見られている。ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』に出てくる監禁システム、ベンサムの考案した「一望監視施設」(パノプティコン)は、そんな不安の原因を明らかにしている。

 

現在の状況は知るよしもないが、一九六〇年代末の東京・新宿の淀橋警察署留置所(代用監獄)には、そのシステムが導入されていた。扇形に設計された建物は、要の位置に監視台があり、各房をひと目で見渡すことができた。各房内には水洗式の便所が設置され、さすがにそこだけは人権配慮か、排泄のためにしゃがむと隠れる衝立のような仕切壁が設けられていた。看守の目からは頭だけが見える仕組みだった。

 

用便が終わると、監視台に向かってこう叫ばなければならなかった。「二四房、便水願います」。なかなか声の出せない私に、同房のポン引きさんは言った。「ちょっとガクレンさんよお、早く流してもらわねえと臭くてかなわねえ。気取ってないで、大きな声でたのみなよ」。おかげで声は出るようになったが、二十日間ほどの拘留の間、さすがに大便はできなかった。

 

昭和四四年(1969)の冬、東大安田講堂闘争の前後に、私は二度不覚にも検挙されている。一度目は一月九日に本郷構内で民青との内ゲバの途中検挙され板橋区の志村署に勾留された。どうせ三泊四日とタカをくくっていたが、その見通しは甘く二十日間ほど拘留され安田講堂闘争には参加できなかった。二度目は二月四日の沖縄ゼネスト連帯デモで旗持ちを務めたが、指揮者とともに検挙され、淀橋署に勾留されたというわけだ。

 

当時の私は十九歳の少年だった。初犯時は未成年ということで不起訴になり、保護観察処分が科されたが、二度目は保護観察中の再犯で反省の意図がないと東京少年鑑別所に送致された。五〇年経った今振り返ると、鑑別所に収容された時は、それまでの内ゲバに明け暮れた闘争の日々から解放され、心身ともに安堵の気分でいっぱいだった気がする。当然日々の生活に制限はあったが、入所当初は独房を与えられ、自由時間には読書することも許された。森鷗外の『青年』などを読んだのもその時だ。

 

三月に家庭裁判所の審判を受け、再犯の見込はないと判断され私は不処分となって解放されるのだが、結局は孤立を深める大学キャンパスには戻れず、翌昭和四五年(1970)四月に除籍となった。