無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

母の「おぼえがき」その3

 母の「おぼえがき」(その三、昭和二十一年)

 

昭和二十一年一月一日

 午前三時、お祝すませて床につく

 連日の疲れでぐっすり八時迄寝ル、

 赤飯、人蕁、ごぼう、ごまめ、じゃがいも、

 小芋、えんどう豆、高野豆腐、かずのこ、こんにゃく

 一日は殿辻の春本へ行く

 午後家でブラブラする

 

 二日 自轉車にのせてもらひ土塔へ父と行く、

 霜野さんでよばれる

 フクエさん、良ちゃんと午後四時頃帰る

 すき焼きで御馳走する

 

 三日 九時過から二人をつれて映画

 『花嫁の寝言』『だんだら繪巻』見て帰る

 夕方雨、二人泊る

 

 四日 初仕事 意外に忙しい

 十時頃土塔へ帰った

 

 七日 粉浜劇場へ婚約三羽烏見に行く

  十五日 小正月 午後店休み

  岸和田へ陽子様お見舞に行く

 

 二月七日

 元比古、明連れてターザンの映画見に行く

 

 二月十七日

 千里山の藤田先生のお宅へ伺ふ、朝五時起床、

 七時過出る かんづめ持って行く

 ナッパ澤山もらって帰る

 

 二月二十日

 午前十一時頃、郵便はがき入る、

 父、ニコニコしてよんでいる

 「利が帰って来た」

 私は夢のやうな気がした 病院へ入っているといふものの

 嬉しさがつい顔に現はるのをどうする術もなし

 あゝやっぱり待ってゐた甲斐があった ほんたうに嬉しい

 早速髪を洗い、浜田さんへ頼みに行く 夜八時半帰宅

 梅園さんが来て父と飲んでゐた

 

 二月二十一日

三時頃起床、嬉しいのやら なつかしいのやら、不安も交じって落ち着かない 七時前家を出て電車が都合悪く十二時頃伊賀の山本様宅着、早速状態をお聞きして、お辨当をかき込んで久居町へと向ふ、久居の町は何となく空気のすんだ小じんまりしたよい町だ、病院へ行く松並木はほんとうにすっきりして忘れ難いなつかしい印象を心深く残した

をどる胸を押へて病室を尋ねると外出中、うらめしく思いながらも外出が出来る位だ から思ってゐたよりはずっと身体の具合も●なられてゐるに違いないと一安心したものの一向に姿が見えない

そうこうする中に時間がたってくる、元比古が早く帰ろうといふ、気が気でない、約一時間もした頃、三人連で帰って来られた

宿直室を飛出した私はただ頭を下げたきり何も言ふことが出来なかった「アゝ来てくれたの、大分待った?ほんとにすまなかった」と何べんもくりかえされる利一様に私は何も返事することが出来なかった

毎日々朝から夜まで、夜ねた間も忘れたことのないお兄様、よく無事で、よく無事で昔に変わらぬお姿でよく帰って下さったお兄様、すぐにすがりついて思ひきり泣きたいようなしようどうに駆られながら、母と話すのをただ横顔を見つめたまゝ私は黙って聞いてゐた

時間も迫り、離れ難い別れ難い名残を惜しみ乍ら門まで送って下さったお兄様は、いつまでも不動の姿勢で私達を見送ってみて下さった

 

「春本」は南側と同じく祖父の妹の嫁ぎ先。当時はまだ中百舌鳥(堺市土塔)の疎開先と粉浜の家との二重生活を送っていた。『花嫁の寝言』は昭和八年、五所平之助監督作品。『だんだら繪巻』は昭和十五年、岡田敬、『婚約三羽烏』は昭和十二年、島津保次郎監督作品。

元比古は異母弟、明は阪上家の長男で従兄弟。藤田先生は東粉濱國民學校で薫陶を受けた恩師である。

 

祖父が読んでいるのは、ニューギニアの前線から九死に一生を得て生還した父・利一が、三重県津市の久居陸軍病院から祖父にあてたハガキ。ここでは父・利一の略歴を記す。

 

 父は大正六年八月十五日、佐野末吉・ひさ四男として三重県上野市(現伊賀市)に生まれた。昭和四年尋常小学校卒業と同時に上野市の谷岡理髪店に奉公。これは、理髪職人として大阪市で自立していた長男猛の勧めによるもので、利一もまた二十歳の頃は大阪阿倍野・片岡理髪店に勤めた。

昭和十四年一月、三重県阿山郡大山田村(現伊賀市)で理髪店を営む赤井としゑに養子縁組。同年四月赤井利一として出征し、満州国公主嶺で高射砲第十二連隊に入営。砲兵二等兵としてノモンハン事変に従軍した。

 

昭和十六年七月、野戦機関砲第25中隊(猛1225部隊)に転属。満州国東安省平陽や新京等で日中戦争を闘い、十二月八日の日米開戦を迎えた。平成十七年、部隊は南方転用となり、新たに編成された第十八軍(軍司令官安達二十三中将)直轄部隊に編入され朝鮮釜山港を出発。ラバウルを経由の後十二月十四日ニューギニアに上陸。二十年八月十五日の敗戦まで飢餓とマラリアに悩まされながら、絶対国防圏からも外された戦場を彷徨っていた。

敗戦後はウエワク半島沖ムッシュ島の捕虜収容所に留められ、昭和二十一年一月十七日神奈川県浦賀港に復員。部隊履歴作成などの残務整理を行った後、三重県津市の久居陸軍病院マラリア後遺症の療養治療を受けた。

 

赤井利一として出征する前、父は理髪職人として祖父の店に勤めた。その技術を見込んだ祖父は、長女である晶子の婿として迎え、将来は店を継がせることを約束していたという。母もまた、十代のはじめから父を兄と慕い、戦争が終わる暁には結婚できることを疑わなかった。

 

ハガキを落手した翌日、祖父母は晶子と末弟元比古を伴って、久居陸軍病院に出向いた。久居は大阪・上六と名古屋を結ぶ近鉄電車の駅だが、昭和二十一年当時はどんな交通事情だったのだろう。「伊賀の山本宅」は、父の姉である十三の嫁ぎ先。四歳で生母と死別した父を母親代わりに愛しんだ人である。