無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

母の「おぼえがき」その1

 私の母は昭和二年十月二十六日大阪市住吉区(現・住之江区)長狭町に、理髪業を営む馬野政一・政江の長女として生まれた。その店舗付き住宅は阪堺電車の線路に面し、住吉大社の鳥居前に建ち並ぶ家並みの一画にあった。政江は二年後に長男浩一を産むと病没し、継母シナが来た。しかし、シナも次女仁子、次男邦比古(夭折)、三男元比古を産むと、昭和十一年二月に亡くなってしまう。

九歳になる長女を頭に生後二ヶ月の三男まで、幼い四人の子どもを抱えた祖父は、三番目の妻としてサクを迎えた。サクは子どもの産めない人だったが、幼い四人を実子と変わらぬ愛情で育て、最盛期には十人近い職人たちが働く理髪店の女房として、一家を支えた。

 

 昭和十七年三月、母は大阪市東粉濱國民學校高等科を卒業した。生涯の師と仰ぐ教師に出会い、上級学校への進学を夢見たが、職人家庭の「長子」として、家業を手伝いながら幼い弟妹の面倒もみるという事情がそれを許さなかった。母は、家業を助けるために理髪職人見習いとして祖父に弟子入りした日から、敗戦後の昭和二十一年二月二十一日まで、「おぼえがき」と題された小さな手帳を残している。それは私にとって、両親の若き日々を教えるものであるとともに、戦時中の職人家庭の日常を伝えるささやかな記録である。

 

母の「おぼえがき」(その一、昭和十七〜十八年)

 

昭和十七年四月十二日 弟子入リ

 十一日、二十五日 公休日

 月、四円(小遣)

 仕事、専ラ、カミソリトギ

 職人サン 二人

 

昭和十七年六月十九日

 満州カラ佐野サン休暇デ帰ル 午後二時頃

 七月三日 原隊ヘ帰ル

 

昭和十七年九月二十五日

 軍事郵便クル

 

昭和十七年十二月二十日

 手紙返送サル (部隊行先不明)

 

昭和十八年一月一日

 笠木サント初メテ先生ノオ宅ヘ伺フ、先生病気、午後九時過帰宅

 昭和十八年ノ冬ハ身体不調子(メマヒ)

 

昭和十八年四月

 月六円(小遣)

 七日、十七日、二十七日 公休日

 

昭和十八年六月二十八日

 南海前線ヨリ久シブリニテ軍事郵便

 

昭和十八年八月二十六日〜二十七日

 淡路島千山千光寺ヘ理髪組合ヨリ錬成道場ヘ行ク

 

昭和十七年三月十九日

 東京ヘ行ク、父ト元比古ト私、二十二日朝 帰阪ス

 

昭和十八年ノ暮

 藤井、長谷部さん、父ト私

 大ヘン忙シイケレド十時頃カラハヒッソリスル

 閉店後ウドン、モチ、スマシ汁頂ク

 三十一日ノ上リ金、九十二円

 

昭和十八年十二月二十五日

 坂上ガ布施ヨリ粉浜ヘ帰ル

 

 

 毎月四円の小遣いは、現在の価値では二万円程度か。因みに当時の小学校教員の初任給が五十〜六十円。たばこ(ゴールデンバット)が十銭の時代である。

 「佐野サン」は、後に母と結婚する父のこと。父は大正六年三重県上野市(現伊賀市)生まれ。母より十歳年長で、昭和十四年に現役兵として出征。満州国公主嶺で高射砲第十二連隊に入営し、砲兵二等兵としてノモンハン事変に従軍した。

昭和十七年六月は、野戦機関砲第25中隊(猛1225部隊)・軍曹として、満州国東安省平陽や新京等で日中戦争・太平洋戦争を闘っていた。

 昭和十八年六月二十八日の軍事郵便は、ニューギニアからの最後のはがき。父の部隊は満州から南方転用となり、十七年十二月十四日にニューギニアに上陸、飢餓とマラリアに悩まされながら、「転進」と呼ばれる敗走戦を闘っていた。

 東京行きの日付と理由は不明。

 大晦日の売上が九十二円。当時の理髪料金は八十銭(大人調髪)程度で、百人以上の来店があったことになる。