無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

『荒地の恋』

平成一九年(2007)九月に上梓された、ねじめ正一の『荒地の恋』は、赤裸々でスキャンダラスな描写も多々あり、『荒地』の同人たちも実名で登場するなど話題になった。上梓の直後には重松清朝日新聞の書評で取り上げた。

「たった、これだけかあ」と心の中で問う声に、「いいじゃないか、これで」と応える詩人の姿から、この長編評伝小説は始まる。主人公は北村太郎。表題の「荒地(あれち)」は、彼が戦後間もない頃に仲間たちと創刊した同人誌の誌名でもある。妻と子を水難事故で亡くした北村は、再婚をして、子どもたちも一人前に育ち、おだやかな日々を過ごしている。しかし、五三歳のある日、北村はふと自問する。仲間たちに比べてあまりにも寡作なことへの「たった、これだけかあ」と、ささやかな家庭の幸福への「たった、これだけかあ」――二つのつぶやきに、「いいじゃないか、これで」と自答するのは、夫としての、父親としての、あるいは新聞社の勤勉な校閲部員としての北村太郎である。

昭和二二年(1947)に創刊された詩誌「荒地」には、「Xへの献辞」と題した創刊の辞を執筆した鮎川信夫をはじめ、田村隆一、中桐雅夫、三好豊一郎黒田三郎加島祥造、野田理一、衣更着信、北村太郎高野喜久雄吉本隆明といった面々が加わった。彼らは、戦前のモダニズム詩やシュルレアリスム詩に影響を受けながらも、大東亜戦争の体験を経て批判的に詩法を問い直し、独自のスタイルを確立したが「たった、これだけかあ」と自嘲するように、旺盛な詩作を続ける鮎川や田村らに比べ、北村太郎は寡作でいかにも地味な存在だった。その北村が五三歳の時、田村の妻「明子」と恋に落ちる。家庭も職場も棄て、明子との生活を選んだ北村を待っていたのは、夫の裏切りに怒りを抑えきれない妻治子の自壊と、明子も北村も失いたくないという、常軌を逸した田村の執念だった。

その「いいじゃないか、これで」は、一人の女性との出会いによって粉々に砕け散ってしまう。北村は道ならぬ恋に落ちた。妻子を捨てて家を出た。しかも、奇しくも最初の妻と同じ「明子」という名前を持つ恋の相手は、高校時代からの親友・田村隆一の四度目の妻だったのだ。あらすじだけをとりあげれば、スキャンダラスな話である。北村と明子の恋の顛末はもとより、酒仙詩人と謳われた田村隆一の言動もまた、世の常識や良識からは大きくはずれている。しかし、家庭という靴を脱ぎ捨て、素足で不倫の荒地を往く北村太郎には、言葉があった。家を出てからの北村は堰を切ったように詩を次々に発表し、高い評価を得る。一方で、妻を奪われた田村隆一もまた、どうしようもなく詩人だった。

「家庭人としての日々をまっとうしているからこそ詩が書けなかった」北村を評し、自らも詩人であるねじめは書く。〈詩は道楽から生まれない〉と。

夫を生かしているのは自分の支える「生活」であるという自負が、妻達を生かしている。毒々しいまでのその自負が蔑ろにされることで、既に壊れていた明子に続き、北村の妻も壊れた。北村は赤貧を十字架のように背負い、田村は酒で身を持ち崩し、体を張って妻を手繰り寄せる。「生活」を舐めたことで二人とも生活に復讐されたが、代わりに「生きた言葉」の湧き出す、血の通った人生も手にした。しかし妻達は、舐められても自ら裏切っても、なお夫の帰る気配に耳をそばだてるのである。

荒地の恋』で、強く私の印象に残ったのは、さりげない心遣いで北村と明子を見守る鮎川信夫の存在だ。ある晩、北村は、睡眠薬を服用した明子から自殺をほのめかす電話を受ける。あちらこちらに手を尽くし、その甲斐あって無事保護された明子を迎えに行こうとする北村に、横浜駅の助役はこう語りかける。

「他人に知らせるというのは、ようするに本人は止めて貰いたいんじゃないでしようかね。今回の方も睡眠薬を飲んで線路沿いを歩いていたそうですしね。名越トンネルの手前はたしかにほかの場所より線路に近いですが、睡眠薬でフラフラになって乗り越えられるほど低い柵でもないですしね」。そう言うと、助役は気の毒そうな目で北村を見て笑ったのであった。

本当に自殺したい人間は、他人に予告などはしない。明子の言葉に乗せられて右往左往した北村を、つまり、とんだお人好しだと笑っているのだ。

「ふん。言いたいやつには言わせておけばいいさ」鮎川が大きな声で言った。「そいつらは人間の命ってものをわかってないんだ。人間の生き死にを軽く考えているんだ。俺はそういうやつが大嫌いだ」「そうだな。俺も嫌いだ」「おい。君は明ちゃんの面倒をちゃんと見ろよ。明ちゃんのことを親身で考えられるのはお前だけなんだからな」怒ったような声で言うと、「じゃあ、またな」という挨拶で鮎川の電話が終わった。そしてそれが、鮎川からの最後の電話になった。

映画監督の西川美和は「北村や田村達の生き方を描いたこの作品は、生活とは、自由とは、夫婦とは何なのかという問いを、詩人に限らず、人生を歩む者に等しく迫る」と文庫本の解説で書いている。『荒地』の仲間として若い頃から北村や田村と親交のあった鮎川は、この事件のあと急死する。私生活を明かさず、独身で最愛の母・幸子との同居生活を送っていたと思われていた鮎川だが、昭和三三年(1958)三八歳の時に英文学者最所フミと結婚している。そんな鮎川が、「おい。君は明ちゃんの面倒をちゃんと見ろよ。明ちゃんのことを親身で考えられるのはお前だけなんだからな」と北村に言った真意はどこにあるのだろうか。