無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

磯﨑憲一郎の文芸時評

NHKの連続テレビ小説半分、青い。」を観ていて、どうしても覚えてしまう違和感、という表現では足りない、ほとんど憤りにも近い感情の、一番の理由は、芸術が日常生活を脅かすものとして描かれていることだろう。漫画家を目指すヒロインは、故郷を捨てて上京する、そのヒロインが結婚した夫は、映画監督になる夢を諦め切れずに妻子を捨てる、夫が師事する先輩は、自らの成功のために脚本を横取りしてしまう・・漫画や映画、そして恐らく小説の世界も同様に、生き馬の目を抜くような、エゴ剥き出しの競争なのだろうと想像している人も少なくないとは思うが、しかし現実は逆なのだ。

 

磯﨑憲一郎は八月の朝日新聞文芸時評をこう書き出す。「半分、青い。」は私も観ているので、磯﨑の憤りの視点に虚を突かれた。磯﨑は続ける。

 

故郷や家族、友人、身の回りの日常を大切にできる人間でなければ、芸術家には成れない。よしんばデビューはできたとしても、その仕事を長く続けることはできない。次々に新たな展開を繰り出し、視聴者の興味を繋ぎ止めねばならないのがテレビドラマの宿命なのだとすれば、目くじらを立てる必要もないのかも知れないが、これから芸術に携わる仕事に就きたいと考えている若い人たちのために、これだけはいって置かねばならない。芸術は自己実現ではない、芸術によって実現し、輝くのはあなたではなく、世界、外界の側なのだ。

 

これをまくらに、磯﨑は保坂和志の短篇集『ハレルヤ』(新潮社)を取り上げ、愛猫との別れの日々を綴った表題作について、敬意のこもった批評を行うのだが、私にとって最も印象深く感じられたのは、カフカ箴言を引用した締めくくりの一節だった。

 

デビュー以来の保坂和志の全著作を読んできた一人として、ここ数年の作品はシンプルに、ストレートに、より融通無碍に書かれていることを強く感じる。「小説は読んでいる行為の中にしかない」というのは、この作者自身のかつての言葉だが、近年の作品は読後の感想や批評も寄せ付けない、それを読みながらただ深く感じ入るしかない、最強の小説と成り得ている。そして何よりも作者の作品では、全ての芸術家の導きとなる生き方が示されている、「おまえと世界との闘いにおいては、かならず世界を支持する側につくこと」というカフカの教えが、ストイック且つ大胆に、実践されている。

 

磯﨑が、ここで一風変わったカフカの教えを引用するのは、保坂のユニークな長編小説『カフカ式練習帳』(2012文藝春秋)を踏まえた上のことなのだが、私は加藤典洋が昭和六三年に刊行した批評集『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』(1988筑摩書房)を思い起こした。そのタイトルの意味について、加藤は「要するに、対立を自分の中に持ちこめ、そうすることで、分かりやすい世界がすべてなくなり、物事を考える理由が全て自分のものになる、とそういうことだと思うのです」(週刊読書人ウェブ2018)と語っている。

 

「芸術は自己実現ではない、芸術によって実現し、輝くのはあなたではなく、世界、外界の側なのだ」。磯﨑は、たしか商社マンと小説家との二足のわらじを脱ぎ、現在は東京工業大学で教壇に立っている。磯﨑が力を込めるこの言葉は、学生たちに向けたメッセージでもあり、個(内面)と世界(社会・現実)との関係を考えさせられる大切な視点ではないだろうか。