無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

落暉と青木先生

「雲こそ吾が墓標 落暉よ碑銘をかざれ」

 

阿川弘之の『雲の墓標』に出てくるこのエビグラフは、主人公である海軍予備学生吉野次郎が、特攻出撃にあたり、友人鹿島に宛てた遺書の一節である。某日、居酒屋を出て大正橋の欄干にもたれ、川を渡る風に吹かれていた。酔眼をこらしてみると、落暉はまさに今、ドーム球場の陰にあった。

 

先刻の議論の中身も、酒肴の名も思い出せないのに、半世紀以上も前の記憶が、いきなり甦る。昭和四十年(1965)の春、私は高校生になった。私が入学した府立阪南高等学校は、大阪市の南のはずれにあり、ベビーブーマーのために急造された高校のひとつで、歴史も伝統もなく、ガラス張りの校舎のモダンさだけが取り柄だった。

もうひとつ取り柄をあげれば、教壇に立つ先生達が若かったということだろうか。校長を筆頭に、伝統校に追いつけを叫ぶ進路指導の担当が、国公立大学や有名私大への進学率アップに狂奔する中で、大学卒業間もない先生達は兄貴分のようにおおらかだった。

宿直室を訪ねた私たちに、阿川弘之の『雲の墓標』の一節を、遠い目をして語ってくれたのは、現代国語を講じた青木三郎先生だ。「詩の同人雑誌を作りたいので、顧問になってください」。ぶしつけな要望に快く応じた先生は、用度課に掛け合って用紙の手配やガリ版印刷機の使用許可も取ってくれた。

著名な漢詩から誌名を拝借した『鞦韆(ぶらんこ)』という同人誌は、各号を五〇部ほど印刷して配布したが、二年の秋に第五号を刊行して終焉した。青木先生は、とても詩作品とは言い難い私たちの悪戦苦闘を励ますように、時には「ぼくにも書かせろよ」と、自ら書かれた詩を寄稿してくれた。

 

ぼくは死んだ―――大学の日に  

 

果てしない夜に

ぼくは死んだ

 

うそのように簡単に

ぼくは死んだ

 

醜い肉体と心とを晒し

疲れ果てて

やがて来る亡びの日に耐えかねて

ぼくは死んだ

 

おお

退廃の極みよ

 

青木先生は、神戸大学で専攻された日本中世文学の研究を続けるため、北野高校夜間部に籍を移し、二足のわらじを履く生活をスタートされた。青臭く、生硬な文学談義に付き合ってくれた先生との出会いは、私にとって、荒川洋治のいう「文学の門」と言えるのかもしれない。