無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

遺稿詩集『むねに千本の樹を』

私の義兄は平成一五年(2003) 七月八日、五七歳の生涯を閉じた。正体不明の自己免疫疾患(グッドパスチャー症候群)に冒され、一〇〇日に渡る闘いの末の無念の死だった。七回忌を迎えた年に、姉と子供たちが遺稿詩集を上梓した。

義兄は、山口県の瀬戸内の海を臨む集落に生まれ、地元の高校を卒業すると製薬会社に入社し、故郷を離れた。詩作を始めた時期は定かではないが、おそらく、会社の独身寮に住みながら工場と行き来していた二十歳の頃だ。遺稿詩集には、二一歳から三六歳に至る間に書き続けた、九一編の詩がおさめられている。

 

乙女のバースディー

 

蓑虫に恋した

枯葉の乙女の

冬は 反回転への

インターチェンジ

色褪せたミニスカートに

白く織りこまれた太陽の汗

吹き上げる砂時計

テープは波の上で逆立ちの

アトラクション

 

いたいけな十七歳の金曜日

目覚まし時計は

いつか捨てられた

マスカラは涙の染み

セピアの荒野の上を

青春は 花の香りを滴らせ

水色の雲を飛び越えた

 

アポロの馬車は

まだ待っているだろうか

口紅のポエムは

もう届いているだろうか

 

姉と出会った二三歳の頃の、微笑ましい作品。投稿した作品が雑誌に掲載されると、必ず義兄は姉に手渡していたそうだ。

 

むねに千本の樹を

 

果物屋

店先を通りかかるたびに

ぼくの肺はパタパタはねをしばたかせる

 

やわらかい包装紙にくるまれたのやら

無造作に笊に盛られたリンゴのことをおもう

いちように

歯ざわりの果肉のことではなく

あの赤い部分

つやつやの輝く部分だけが

風の みえる全容であるなんて

空にナイフは投げられない

 

(部分がすべてだ

部分のなかに全世界がまるく横たわっている)

 

風が

ひとつの現象としてみぢかに記録されるなら

具象としての風は

やさしく地表をかこみ

季節のフレーズを届けながら

せまい庭にも樹をうえることを吹聴するだろう

 

知識よりも まず

最初に事実だ

組成を喰いあらしてはならない

ぼくらは 忙しい虫

のような時代にさらされても

吹きだまってはいけない

窓ぎわに椅子をのけるように

 

かつて

風はすくなかった と

創世記は云う

むねに千本の樹をもたせよう と付記されて

 

市場の

よくある風景画のなかで

みえないざわめきが

ひとしきりむねのアーケードをゆする

まだ 夕刻に間に合う

 

これは昭和五三年(1978)、三二歳の作。二六歳で結婚し、二八歳で長男、三一歳で長女が生まれ、二児の父親となった充実した時代の作品だ。義兄は、生涯にわたり軽佻浮薄を嫌った人だったが、詩にはユーモアに満ちた心を開いている。

 

きず

 

瓢箪に

酒をいれておいたら

(ついでに こっちの胃壁も緩衝させて)

 

しだいにひょうたんがいろづきはじめた

はじめ枯草色だったものが

褐色になり

やがてあかちゃけてきた

(きかない薬の方が結局安全なんだよ)

 

ひとが酒をのんだときのように

ひょうたんも赤く酔っぱらうのであった

すると ひょうたんにあった傷口のようなものが

とても美しくみえるようになった

(風の刺青じゃないのかねー)

 

ひとの

こころのきずも

かたちのない記憶のどこかで

ひっそりと磨かれる

 

(やっぱりいちばん涼しいのは風の末尾だよ

まだ青いから

書きだしの一行のように気がかりだ)

 

遺稿詩集のあとがきで、姉は義兄との出会いから訣れまでを記し、「どんなに言葉を尽くしても、彼の生きた五七年の証とするには足りません。伝えきれないもどかしさを感じつつも、私に与えられた宿題、彼の遺した詩を編む作業だけはどうにか終えることができました」と書いた。

彼の病気は、肺と腎臓にダメージを与える自己免疫疾患でした。週三回の人工透析を受けながらの闘病生活は三ヶ月に及びました。一日に七百ミリリットルしか水を飲めなくても我慢し、病棟から出ることができなくても、弱音を吐くことはありませんでした。それでも、肺の機能が弱まって次第に呼吸が困難になり、管を入れて酸素を送ることになった日、ベッドの上で初めて私に、「苦しい」と漏らしました。平成十五年五月二十日、彼が残した最後のメモです。

 

涙が止まらない

自分の免疫が自分を縛りつけて身動きできない

何かが狂っている 自分か他もか

多重人格のように どれがほんとの自分なのか

何が不足なのか 少しもわからない

ただ現実に言えることは少しずつ狂ってきているのだ

自分も世間も そして世界も

 

義兄の墓は、瀬戸内の海を見下ろす山の斜面に建っている。穏やかな海面の先には、周防大島と呼ばれる屋代島が見える。故郷の自然の中で、いまでも義兄は詩を書き続けているだろうか。