無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

辺見庸とチェット・ベイカー

新宿のジャズスポット「DUG」のカウンター。ひとりの男が、左手でコーヒーカップを持ち上げている。黒いシャツと破れたジーンズ、メタルフレームの眼鏡、そしておなじみのキャップ。頬はすこし痩せてはいるが、眼光の鋭さは健在だ。

 

PLAYBOY』(平成二十年八月号)のジャズ特集に辺見庸が登場し、チェット・ベイカーを論じている。平成十九年夏の、ニルヴァーナの曲を流したという講演は聞きそびれたが、写真を撮らせるようになったのは何よりだ。没後二十年にあたり、チェット・ベイカーはあらゆる面から見なおされ、聴き直さなければならないという辺見は、こう記す。

 

チェットはある意味で間抜けだった。ジェームス・ディーンばりの風貌と天賦の才で、いっときずいぶんもてはやされたのに、グリーン・イグアナのような顔になるまで五八年も生きてしまったからだ。この点、筆者とてとてもいえたぎりではないのだが、長生きのアーティストや革命家ほど人をいたく失望させるものはない。いわんや、ジャズ・ミュージシャンにおいてをや。

 

因みに、二十代で夭折したジャズ・ミュージシャンでは、ブッカー・リトルクリフォード・ブラウンファッツ・ナヴァロといったトランペッターや、ギターのチャーリー・クリスチャンの名が浮かぶ。ロック界ではジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョップリン尾崎豊ロバート・ジョンソンカート・コバーンたちだ。

 

ソニー・クラークリー・モーガンポール・チェンバースチャーリー・パーカーアルバート・アイラーエリック・ドルフィージャコ・パストリアス………三十代では、ジャズ・ミュージシャンだけでも枚挙にいとまがない。

 

若い頃はチェットを小馬鹿にしていたという辺見は、自らの発病、生死をかけた闘病を機に彼を思い出し、聴き直し、根本から見なおした。その中で、辺見の心を撃ち抜いたのは「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」である。ただし、辺見はチェットを賛美しているのではない。

 

老残のチェットが血涙をしぼるようにうたい、吹くとき、もらい泣きをしない者がいるとしたら、たしかに人非人にちがいない。だが、彼はいつもその手で人を泣かせ、だまし、ヘロインとコカインのためのお金をくすね、ペロリと舌をだしてきたのである。あたかも『悪霊』のニコライ・スタヴローギンのように。ただし、とびきり無教養のスタヴローギンのように。ああ、人はここまで堕ちることができるのか。にもかかわらず、いや、だからこそ、ここまで深くうたえるのか……。私の場合はそうした想いから泣かされたのである。

 

辺見が選んだチェット・ベイカーのベストアルバム五枚は、あのジャケット写真でも知られた「チェット・ベイカー・シングス」をはじめ、ユニバーサルの「チェット」、86年にオランダで録音された五六歳のときの「ラブ・ソング」、「イン・トーキョー愛蔵版」と、死の半年前にドイツで収録されたライブ盤「The Last Great Concert:My Favorite Songs,Vol.1&2」である。

 

あぶない病気になり病室でよこたわっているしかなかったとき、こころにもっとも深くしみたのは、好きなセロニアス・モンクやマイルスではなく、好きでなかったチェットの歌とトランペットであった。最期にはこれがあるよ、と思わせてくれたのだ。猛毒入りの塗布剤のような、はてしなく堕ちていく者の音楽が、痛みをなおすのでもいやすのでもなく、苦痛の所在そのものをひたすら忘れさせてくれた。くりかえすが、彼の音楽に後悔や感傷は、あるように見せかけているだけで、じつはない。

〈人生に重要なことなどなにもありはしない。はじめから終わりまでただ漂うだけ……〉というかすかな示唆以外には、教えてくれるものもとくにありはしない。生きるということの本質的な無為、無目的を、呆けたような声でなぞるチェットには、ただ致死性の、語りえない哀しみだけがある。