無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

入澤美時さんの思い出

一期一会。

たった一度の出会いだが、忘れられない人がいる。その人の思想に深い共感を覚え、時代に抗して格闘する姿を遠望してきた。平成二一年(2009)に急逝した入澤美時さんは、そんな人だ。

 

病に倒れる直前までWEBで連載された、スローネットのインタビューから彼の経歴を転載させていただく。著書に『考える人びと――この10人の激しさが、思想だ。』(2001双葉社)、『東北からの思考』(森繁哉との共著、2008新泉社)がある。 

 

入澤美時プロフィール

       昭和二二年(1947)、埼玉県児玉郡神川町に生まれる。

       昭和四一年(1966)、東京都立新宿高校卒業。

       昭和四二年、美術出版社入社。

       昭和五二年(1982)、入澤企画制作事務所を設立。

       昭和六二年(1987)、長良川河口堰反対運動に携わる。

       平成七年(1995)、『季刊 陶磁郎』創刊で編集長に。

       平成十三年(2001)、

   『考える人びと――この10人の激しさが、思想だ。』を上梓。

       平成十八年(2006年)、

       「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2006」の

    選考運営に関わる。

       平成二十年(2008)、『東北からの思考』を上梓。

      

私が彼に出会ったのは、長良川河口堰反対運動が全国規模に拡大した昭和六三年(1988)の頃だったと思う。入澤美時という名は、前年四月に創刊された渓流釣りの雑誌『季刊ヘッドウォーター』の編集者として知り、そのムック本の作りも斬新だった。当時のことを、入澤さんはこう振り返っている。

 

事務所をオープンしたら、ありがたいことに友人たちからたくさんの仕事が舞いこみました。イワナ・ヤマメ釣りに狂っていましたし、溪流釣りのシーズンが終わると海釣りもしていました。当時の釣りの本は、レイアウトもなにもあったものではないくらいひどいできでした。だったら自分でつくってしまえばいいと始めたのが、『溪流フィッシング』(山と溪谷社)というムックです。これが大当たりしてしまいました。そのあと、自分にとって理想の釣り人であった植野稔さんの本を出そうと企画して、『源流の岩魚釣り』(冬樹社)という単行本も出しました。これもよく売れました。それからは、依頼の仕事やコマーシャルの仕事は一切ことわって、自分が立てた企画の出版だけをやると宣言したのです。

こんなふうにイワナ・ヤマメ釣りに没頭し、七~八年で百冊近くものイワナ・ヤマメ釣りだけの書籍や雑誌(ムック)を出し続けたのも、子ども時代に柿生の川遊びをしたこととつながっているのでしょう。このイワナ・ヤマメ釣りで、北海道から九州まで、全国をめぐりました。自然生態系に向き合うだけでなく、人びとの暮らしというものもたくさん見てきました。どんな作物をつくっているのか、どんな産業があるのか、などです。

 

私が再び入澤さんに注目したのは、やはり新雑誌の編集者としてだった。平成十三年(2001)八月、「事態とメディア、生命の現在を透析するグラフィックデザイン批評誌」と銘打った季刊誌『d/SIGN』が創刊された。戸田ツトム鈴木一誌アートディレクションを担当し、入澤美時が責任編集に加わった野心的な編集や紙面デザインを試みた専門誌だった。創刊号には、装幀家菊地信義がインタビューに登場し、連載陣には加藤典洋が建築時評を、北田暁大広告批評を担当して名を連ねている。創刊については、以下の文章が掲げられていた。

 

IT…という言葉が、本来の先鋭性ではなく、異様な保守性をさえ感じさせる二一世紀初めての夏。アナログ/デジタルと体位させながら進化を測定しようとするいわれのない二元論の悪夢に、デザインをはじめとする多くの文化や思考が「停止」の危機に曝されています。我々は物事を漠然と捉える、また事象を定則的に客観視しようとするいずれの心性をも持ち合わせ、たとえばデザインという営為とともに暮らしてきました。そのなかで進化は常にささやかな技術と哲学の冒険を企ててきたはずです。奇しくもコンピュータ社会が「標準」の覇権とともに進まなくてはならない宿命を持ってしまった以上、あるとき我々の心は電子社会の限界を見出すことでしょう。それは、デザインにとって先鋭とは何か、と再び問い直す時に違いありません。(中略)三者の編集によって創刊された本誌は、特定の指標に思考を収斂させることなく相互間に生じる同調・対立・拮抗・干渉・違和感を誌面に点描し得る磁場として差し出されています。デザインへの動力の場であること、その場に立ち会うべく[季刊 d/SIGN (デザイン)]を創刊します。

 

平成十二年(2000)にはNTTドコモIモードの加入者が一千万人を突破し、パソコンの国内出荷台数が過去最高になり、「IT革命」が叫ばれた時代だった。その『d/SIGN』に、入澤さんは「デザイン発生の場・連載第一回」として「いまなぜ、村上一郎か」を書いているが、そのことが私には衝撃だった。

 

恋闕、魂魄、草莽、翹望、含羞、武断、慨言、憤怒……。これらの言葉は一体、死語なのであろうか。いまという時代において、意味をもたないものであろうか。これらの言葉を思惟することは、村上の思想が現在、何であるかを考えることに等しい。

 

「いまなぜ、村上一郎か」。入澤さんの、ともすれば時代錯誤の言説と受け止められかねない試みは、しかし一方で、網野善彦加藤典洋森山大道吉本隆明などとの対談集『考える人びと――この10人の激しさが、思想だ。』と共鳴している。

 

高校二年から三年、浪人時代と、カント、ヘーゲルマルクスニーチェフッサール…、レーニン、トロツキー毛沢東ゲバラ……、ドストエフスキーからヘンリー・ミラー、ビートジェネレーション…、サルトルメルロー・ポンティ、カミュからヌーヴォー・ロマン……、そして日本の吉本隆明埴谷雄高谷川雁…とずっと読んできました。そのとき学生運動の渦中でしたから、本当に「日本に革命を起こそう」、そのことだけしか考えていませんでした。日々、そのことだけを考えて生きていました。だから、大学にいくのをやめて、一人で早く食べられるようになりたかったのです。僕の基本的な考え、思想は、そのときからなにも変わっていません。いまも、「日本を変革したい」と、本気で思っています。ただ「革命」が、「変革」という言葉に変わったかもしれません。しかし、もっともっと現在の方が、本格的なものになっています。きっと、元女房のいう通りなのでしょうね。「なにかを変えたい」というのは、僕の性(さが)なのかもしれません。きっと死ぬまで、こうやって生きていくのだと思います。

 

森繁哉との共著『東北からの思考』を上梓した入澤さんは、『d/SIGN』最新号で「地誌・地政学の可能性」の連載を始めたばかりだった。「日本を変革したい」と、本気で思っていた入澤さんが描いていたのは、柳田国男折口信夫を通して構築する新たな民俗学ではなかっただろうか。