無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

関川夏央・讃

あくまで私は一人の読者に過ぎないが、なぜか特別の親近感を持ってその作品に接する作家が何人かいる。荒川洋治桐山襲佐藤泰志永山則夫村上春樹たち。作家ではないが、私の二十歳の誕生日に自ら命を絶った高野悦子も忘れ難い。共通するのは昭和二四年生まれである。関川夏央も昭和二四年生まれで、私は彼について幾度が拙いブログで紹介してきた。

 

(平成十七年(2005)五月二五日)

「68ers・シックスティエイターズ」

 

関川夏央の『石ころだって役に立つ』が文庫になった。目次にある「68ers・シックスティエイターズ」という言葉に、初めてそのエッセイに出会ったときの記憶がよみがえった。

 「(中略)スチールの組立て本棚と、読みもしない吉本隆明と、ジンライムのセットだけは、たいていの学生の部屋にあった」

「一九七〇年頃?」

「六八年から七〇年代のはじめ頃まで」

「あ、いやな時代」

「六八年頃に、コドモとオトナの間だった連中を、シックスティエイターというんだってさ」

「あ、かなしい言葉」

彼女はそういって含み笑った。

 

ここに書かれた事柄の、ジンライムのセット以外は共感できる。スチールの本棚には、おそらく次のような本が並んでいたとおもう。

 谷川雁『原点が存在する』

 吉本隆明『言語にとって美とは何か』

 埴谷雄高『幻視のなかの政治』

 橋川文三『日本浪漫派批判序説』

 磯田光一『殉教の美学』

 桶谷秀昭『近代の奈落』

 羽仁五郎『都市の論理』

 モーリス・ブランショ『文学空間』

 J.P.サルトル『想像力の問題』

 アンドレ・ブルトンシュールレアリスム宣言』

 等々。

 

昭和二四年(1949)生まれの関川夏央は、昭和四三年(1968)に新潟から上京した。上智大学で演劇に関わり、幾度かの失恋をした。彼のことを昭和生まれの明治人と看破したのは、伊藤比呂美だったか。

 

(平成十七年(2005)五月二六日)

懲役一八年

関川夏央は、エッセイの名手であるとともに、優れた短編小説の書き手である。時代を描くエッセイと、フィクションを交互に配した『砂のように眠る』が、その代表作品集といえるだろうか。

団塊世代のセンチメントかも知れない。自虐的という声も聞こえぬではない。だが、彼のエッセイに通底する、そこはかとないユーモアやペーソスは、殺伐とした今の時代には得難いものである。

昭和五〇年(1975)、二五歳の時彼は結婚していた。わけあって別れることになったとき、彼女は最後にこういった。「あなたはオトナになるまで再婚なんかしちゃ駄目」。どれくらい駄目だろうと尋ねる彼に、彼女は「懲役一八年」と答える。もちろん、安藤昇主演の映画が下敷きだ。

そのエッセイを関川はこう締めくくる。「わたしは内心、十年もたてば仮釈放だなとタカをくくっていたのだが、案に相違して満期に至っても出所できず、すでに懲役は二十年の長きにおよんでいるのである。」(『中年シングル生活』中の「春は小石さえあたたかい」より)

 

(平成十八年(2006)三月二日)

『おじさんはなぜ時代小説が好きか』

 

関川夏央の『おじさんはなぜ時代小説が好きか』は、岩波書店から「ことばのために」と題された叢書の一冊だ。荒川洋治平田オリザ加藤典洋と続いてきたシリーズも、これで高橋源一郎の『大人にはわからない日本文学史』と、五人の共著となる『言葉の見本帖』を残すのみとなった。

 

博覧強記の関川が取り上げる時代小説作家は、主に五人。山本周五郎吉川英治司馬遼太郎藤沢周平山田風太郎だ。もちろん、この五人にとどまるわけはなく、長谷川伸村上元三、また隆慶一郎宮部みゆきまでへの射程がある。中里介山柴田錬三郎五味康祐といった剣豪小説も外せない。

 

(平成二〇年(2008)六月五日)

家族の昭和

 

○ブログを再開したらしいね。

  • 浅学非才のこんなブログにも、楽しみにしてくれている読者が五人いることが分かったので、また頑張ってみようと。

○中断していたわけは何なんだ?

  • 一言で言うと、ゆとりのなさ。それと、ブログへの根本的な疑問もあった。ろくに論証もしないで書くことは、印象批評の域を出ないとか、つまらぬ私見を、不特定多数に垂れ流していいのかという反省もあったんだ。

○だけど、それがネット、ブログの世界だろう。マナーを守って自分の考えを公開するなら、遠慮することはないんじゃないか。心の優しい五人がいることだし、君の考えがつまらないか、判断は彼たちに委ねればいい。

  • そうだね。批判は書くけど、他人を誹謗中傷することは禁じるのが初めに決めたことだから、これからもそうしようと思う。

 ○君がファンの関川夏央の新刊が出たね。

  • 『家族の昭和』(2008新潮社)だろ、もちろん早速読んださ。「昭和」を語らせたら、関川の前に出るやつはいない、とぼくは思う。『砂のように眠るーむかし「戦後」という時代があった 』(1993新潮社)は戦後世代のノンフィクションの金字塔だし、何度読み返しても泣けてくる。『昭和時代回想』(1999NHK出版)、『昭和が明るかった頃』(2002文藝春秋)と、彼は昭和を描き続けてきた。司馬遼太郎亡き後は、その役割を担うのは関川をおいてはないと思っている。

○ずいぶんほめるじゃないか。だから、今度の本の腰巻きに、「回想」はもういい。昭和を「歴史」に、とあるのか。

  • 関川は、「今年は昭和八三年」といいたいくらい昭和人を自認している。平成に変わってふた昔、そろそろ「昭和」を対象化しようというのが、関川の考えたことなんだろう。あとがきにも書いている。個人の二十年前は、もはや「歴史」だ。しかし、感傷的「回想」が、おうおうにして「歴史化」をさまたげる。社会の三十年前は「歴史化」されるべきだ。なのに、なかなかそうならない。とくに日本社会でそれをはばむのは。個人の感傷的「回想」の集合である。私には、文芸表現を「歴史」として読み解きたいという希望が、かねてからある。そこで今回は、昭和時代を「家族」という切断面で見ることを試みた。文芸表現とは言語表現全体にわたり、映像作品をも含む。

○今度の本は、大きく三部構成で、それぞれに「『戦前』の夜」、「女性シングルの昭和戦後」、「退屈と『回想』」と副題がついている。

○そもそもこの本が刊行されたのは昭和十年。山本有三の誘いで、吉野が新潮社の「日本小国民文庫」の編集に携わるようになってからだ。戦後になって、再編集されて復刊されたのが昭和三一年のこと。関川もいっているように、われわれがこの本と出会ったのは、昭和三〇年代の半ばだね。