『現代日本名詩集大成・全十一巻』
昭和四十年(1965)の春、私は高校生になった。中学生の頃から人並みに文学に目覚め、教科書に取り上げられた近代詩に親しみはじめていたが、初めてのアルバイトで得たお金で買ったこの詩の叢書に出会って強い衝撃を受けた。
それは主に、第十巻に収められた鮎川信夫、吉本隆明、黒田三郎、田村隆一といった、荒地派と呼ばれる詩人たちの作品だった。
なぜぼくの手が
ふときみの肩にかけられたのか
どちらかが死にかけているような
不吉なやさしさをこめて
さりげないぼくの微笑も
どうしてきみの涙をとめることができよう
ぼくのものでもきみのものでもない
さらに多くの涙があるのに
(鮎川信夫「なぜぼくの手が」より)
たとえば霧や、
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
──これがすべての始まりである。
(鮎川信夫「死んだ男」より)
「けれどわたしがX軸の方向から街々へはいっていくと
記憶はあたかもY軸の方向から蘇ってくるのであった
それで脳髄はいつも確かな像を結ぶにはいたらなかった
忘却といふ手易い未来にしたがふためにわたしは上昇または
下降の方向としてZ軸のほうへ歩み去ったとひとびとは考へてくれてよい」
(吉本隆明「固有時との対話」より)
一篇の詩が生まれるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
(田村隆一「四千の日と夜」より)
そこにちりばめられた言葉たちは、定型の甘美な近代詩に馴染んでいた私に、鋭い刃を突きつけているようだった。言葉も、比喩も、難解だったが、少年たちの心をふるわす「これは何か新しいぞ」という感覚に満ちていた。この出会いが、その後の文学への関心を決定づけたと思う。
現代詩作家・荒川洋治に「文学は実学である」というエッセイがある。「この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである」と書き出され、漱石や鴎外が教科書から消える現実を憂う。そして、「文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように『実学』なのである。社会生活に役立つものなのである。そう考えるべきだ。特に社会問題が、もっぱら人間の精神に起因する現在、文学はもっと「実」の面を強調しなければならない」と述べている。
文学を見つめる荒川洋治のまなざしは、どこまでもやさしい。彼がいうように、この世をふかく、ゆたかに生きるために、もっと「文学」に触れていきたいものだ。