無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

映画『山桜』

平成二十年(2008)に映画化された篠原哲雄監督「山桜」は、ヒロイン野江を田中麗奈が、手塚弥一郎は東山紀之が演じる。原作の「山桜」は、昭和五六年(1981)に青樹社から刊行された藤沢周平の短篇集『時雨みち』に収録され、現在は新潮文庫に収められている。

 

花ぐもりというのだろう。薄い雲の上にぼんやりと日が透けて見えながら、空は一面にくもっていた。ただ空気はあたたかい。もうこの間のように、つめたい北風が吹くことはないだろう、と野江は思った。

 

 主人公の野江は、十八のときに津田家に嫁したが、夫の死で実家に戻される。その後、ふたたび磯村家に嫁ぐが、一家をあげて蓄財に狂奔しているような家風とも、夫の庄左衛門ともとけ合えず、苦衷の日々をおくっていた。そんなある日、野江は叔母の墓参りをすませて帰る道で、一人の武士、手塚弥一郎に出会う。手塚は、津田から戻された野江に持ち込まれた再婚話の相手の一人だったが、その時は縁なく結び合うことはなかった男だった。

 

野江が手折ろうとした山桜の枝を差し出し、別れ際に「いまは、おしあわせでござろうな?」と問う手塚に、「はい」と野江は答える。

 

ここまでが導入部で、思いがけない弥一郎との再会が淡々と語られる。小高い丘の野道を彩る、山桜の薄紅色が目に見えるようだ。

 

実家に戻った野江は、母に手塚との出会いを話す。思ってもみなかった手塚の自分への思いを感じ取った野江は、自分は長い間、間違った道を歩いてきたような気がするが、もう引き返すことはできない。ひそかに自分を気遣ってくれていた手塚の思いをうれしく思うとともに、磯村とのくらしを、もう一度やり直してみようと考える。

 

不思議にも、野江はそう思っているのだった。磯村との間は、先が見えたと思い、野江はひどく投げやりな気分で過ごしていたのだが、その気持ちに変化が起きた。また離縁されるなどということを、あの方は喜ばないだろう。そんなことになったら、今度こそあの方に愛想をつかされるかも知れない、と野江は思っていた。たとえまだひとり身でいるとしても、それだから手塚弥一郎が二度も離縁になった女を引き取ってくれるだろうと考えるほど、野江は軽はずみではなかった。

 

後半、事態は急変する。手塚弥一郎が、城中で名門の組頭諏訪平右衛門を刺殺するという事件が起こる。諏訪は藩の農政に権勢をふるい、賄賂で私腹を肥やす鼻つまみ者だった。手塚の行いを揶揄する夫の庄左衛門の言葉に、野江は怒りをあらわにする。

 

「手塚の悪口を言ったのが気にいらんようだな。きさま、あの男と何かわけでもあるのか?」

「言葉を、おつつみなさいまし」

「では何だ? その顔は。ふむ、それほどわしやこの家が気にいらんのなら、いつでも離縁してやるぞ」

 

磯村から去り状をもらった野江は、家に戻る。一方、当然切腹の沙汰が下るかと思われた手塚の処分は、藩の意見を二分させ、藩主の帰国を待って裁断を仰ぐことになっていた。

 

思いがけない出会いから一年。野江は手塚弥一郎の家を訪ねる。手には、山桜の枝がしっかりと握られている。大胆な自分の行いに不安を覚えながら、野江はおそるおそる玄関の戸を開ける。

 

だが出て来た人は、そうは言わなかった。挨拶より先に、野江が抱いている山桜をみて眼をほそめた。

「おや、きれいな桜ですこと」

四十半ばの、柔和な顔をした女だった。髪が半ば白いところだけ、そのひとが抱えている苦悩を物語っているようにも見えたが、花から野江に、問いかけるように移した眼はやさしかった。

「お聞きおよびではないかとも思いますが、浦井の娘で、野江と申します」

「浦井さまの、野江さん?」

女はじっと野江を見つめたが、その顔にゆっくりと微笑が浮かんだ。

「あなたが、そうですか。野江さん、あなたのことは弥一郎から、しじゅう聞いておりました。弥一郎は、あなたが磯村のようなお家に嫁がれたのを、大そう怒っていましたよ。あなたに対しても、あなたのご両親に対しても……」

「…………」

「でも私は、いつかあなたが、こうしてこの家を訪ねてみえるのではないかと、心待ちにしておりました。さあ、どうぞお上がり下さい」

 

履き物を脱ぎかけて、野江は土間にうずくまる。そして、自分が取り返しのつかない回り道をしたことを思い知る。

「ここが私の来る家だったのだ。この家が、そうだったのだ」という野江の言葉が心を打つ。