無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

母の「おぼえがき」その2

母の「おぼえがき」(その二、昭和十九〜二十年)

 

昭和十九年一月一日

 鯛、えんどの甘煮、かづの子、じゃがいも、ごんぼ、

 高野どうふ、れんこん、ちくわ、にんじん、ごまめ、

 にしん、ぞうに(もち入)、赤飯

 午後玉川町行、ぜんざい(とても甘い)浩一(げりす)

 

二日

 水なぞうに(煮〆 天どん)晝

 午後 南側行(玉子丼)

 

三日

 ぞうに残り (晝)生山 そうめん、にしめ

 (晩)坂上 肉のすきやき

 

昭和十九年一月二十八日・二十九日

 吉住昇サン来ル

 

昭和十九年三月二十七日

 伊賀上野ヘ全部デ行ク

 

昭和二十年一月一日

 

昭和二十年一月二日

 南側ヘ行ク、泊ル

 

昭和二十年一月三日

 大阪初空襲アリ、午後帰宅、大イニ叱ラレル

 

昭和二十年三月十三日

 午後十一時過警報、直チニ空襲アリ

 敵機ノ爆音眞近ニ聞ユル、四方焼夷弾落下、玉出燃ユル

 

昭和二十年六月十日

 爆撃アリ、仁チャント二人デ中モズヘ荷物運ブ

 十三日頃ヨリ中モズデ泊ル

 毎朝五時頃起キテ粉浜ヘ通フ、父粉浜デ一人寝ル

 

昭和二十年七月十日

 堺焼ケル

 

昭和二十年八月五日

 土塔デ仕事始メル

 

昭和二十年八月六日

 広島市原子爆弾落チル

 

昭和二十年八月十三日

 大阪最後ノ爆撃アリ、五十機内外目撃ス

 

昭和二十年八月十五日

 天皇陛下ノ御放送アリ、ポッダム宣言受諾ス、

 戦争終結ノ歴史的ノ日

 

昭和二十年十月六日

 パーマ アテル

 

昭和二十年十月八日

 粉浜へ帰ル

 

昭和二十年十二月一日

 霜野良造 此ノ世去ル

 

昭和二十年十二月十五日

 貞一郎ノ嫁サン来ル

 

昭和二十年十二月二十一日

 公休、村井サント映画見ル

 「歌フ狸御殿」「ユーコンノ叫ビ」

 

昭和二十年十二月二十二日

 職人サン二人 店大イニ忙シ

 散髪十一月二十日ヨリ二円ニ上ル 上リ百九拾円

 午後五時頃閉店ス

 

 十一月二十日過より自由市場発展ス、コノ頃ノ物ノ値段

 米 六、七十円 糯米 八十五円 ボタモチ 一個五円

 ミカン一貫 二十五円〜三十円 アンマキ 一円 

 串柿 一本九円 鯛百匁三十五円 マグロ 九拾円 

 肉 五〇円 大根一貫十円 人ジン 五本七円 

 ムシ芋百匁 五円 ゴボウ一貫 六十円

 

昭和二十年十二月二十三日

 父、浩一、土塔ヘ行ク、仁子炊事

 

昭和二十年十二月三十日

 午後一時過、父帰ル

  町会ヨリ米一斗、薪九ワ、野菜十貫匁頂ク

  上リ二百円以上

 

昭和二十年十二月三十一日

 昭和二十年の事ガシミジミ思ヒ出サレル

 母朝ヨリ煮〆作リニ忙シ、

 坂上ノオバサンニ終始手傳ッテモラフ、

 夕飯、坂上家呼ブ

 純綿(白米ノコト)デ忘年会スル

 八時閉店

 

 

開戦から二年が過ぎ、戦局は不利になる一方だったが、正月三が日は店を休み、ささやかなおせちで祝った。玉川町(大阪市福島区)には晶子、浩一の生母である政江(旧姓・善正)の妹夫婦が住んでいた。

「南側」は祖父政一の妹の嫁ぎ先で、大阪府岸和田市に居住。

「生山」「坂上(阪上)」はいずれも親戚。

 

大阪市が受けた最初の空襲は、二十年一月三日。B29十機が来襲したが被害はほとんどなかった。しかし、三月十三日の大空襲で、大阪市内十九区はほとんど焼き尽くされた。

仁チャンは異母妹・仁子のこと。粉浜の店は焼失を免れたが、その頃家族は祖父の知人・霜野家を頼り中百舌鳥(堺市土塔)に疎開していた。十七歳の母は、弟妹たちを連れて自転車で粉浜と中百舌鳥を往復したという。

 

粉浜には「粉浜劇場」という場末の映画館があった。母の唯一の娯楽は映画を見ることだった。