無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

『無名鬼の妻』

 平成二九年三月二十日、山口弘子著『無名鬼の妻』が作品社より上梓された。無名鬼の妻とは、いうまでもなく自刃した村上 一郎の妻、栄美子である。村上の死から七年後、栄美子は請われて再婚し村上の家を離れた。以来、長谷えみ子とし て人形作家の道を歩み、馬場あき子のすすめで歌人としても活動して現在に至っている。著者・山口弘子は、昭和 二一年(1946)千葉県市川市生まれ。えみ子も属する「りとむ短歌会」の会員である。  

村上一郎は、昭和五十年(1975)三月二九日に武蔵野のすずかけ小路の家で自刃した。現在では双極性障害と呼ばれる躁鬱病の果ての最後だった。吉本隆明谷川雁とともに『試行』を創刊した彼の死に、私は強い衝撃を受けた。 昭和四九年春に上京し、村上の寓居に近い吉祥寺本町に所帯を持った私は、吉祥寺駅前の古書店で村上の姿を見かけたことがある。季節は初夏だったか、単衣の着流しに、背筋を伸ばして書架を見つめる姿は近寄りがたいものがあっ た。  

三島由紀夫が村上の『北一輝論』を激賞したこともあり、昭和四五年(1970)十一月二五日の三島事件の折には村上の言動が注目された。村上がその日市谷の自衛隊駐屯地に駆けつけたのは事実だが、三島の死の衝撃が村上の躁を極限にまで増幅し、興味本位に様々に語られた。曰く、村上は海軍大尉の制服で着剣して面会を請うた。また曰く、「自分も行動を共にする」と言って日本刀を持って出かけた。『無名鬼の妻』で、えみ子がいちばん冷静で正確と語るのは、関川夏央の『NHK歌壇』二〇〇二年八月号に掲載 された「短歌的日常( 14 )あわれ幻のため 村上一郎」の一文だ。  

村上一郎は、事件当日、ニュースを聞くなり市谷へ行った。彼は「三島の友人でもあるから」ぜひ入れてくれと日頃持ち歩いている海軍時代の『履歴書副本』を見せ、「自分は元海軍主計大尉、正七位の位階をもつあやしいものではない」と警備官を説得しようと試みて婉曲に断られた。村上一郎はいつも大きな包みやカバンを持っていた。内容は双眼鏡や地図であったり、草履と硯箱であったり、ときに日本刀であったりした。」 三月二九日は村上一郎の忌日である。東京都小平霊園にある村上一郎の墓碑には「風」のひと文字が刻まれている。    

 罪深き日々なりしかも春の花みな集めきて風に伝へむ    

 思ひ切り生きてみよとぞ聴く哀し春の墓辺のきみは風にて                                    長谷えみ子歌集『風に伝へむ』より