無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

遺稿詩集『むねに千本の樹を』

私の義兄は平成一五年(2003) 七月八日、五七歳の生涯を閉じた。正体不明の自己免疫疾患(グッドパスチャー症候群)に冒され、一〇〇日に渡る闘いの末の無念の死だった。七回忌を迎えた年に、姉と子供たちが遺稿詩集を上梓した。

義兄は、山口県の瀬戸内の海を臨む集落に生まれ、地元の高校を卒業すると製薬会社に入社し、故郷を離れた。詩作を始めた時期は定かではないが、おそらく、会社の独身寮に住みながら工場と行き来していた二十歳の頃だ。遺稿詩集には、二一歳から三六歳に至る間に書き続けた、九一編の詩がおさめられている。

 

乙女のバースディー

 

蓑虫に恋した

枯葉の乙女の

冬は 反回転への

インターチェンジ

色褪せたミニスカートに

白く織りこまれた太陽の汗

吹き上げる砂時計

テープは波の上で逆立ちの

アトラクション

 

いたいけな十七歳の金曜日

目覚まし時計は

いつか捨てられた

マスカラは涙の染み

セピアの荒野の上を

青春は 花の香りを滴らせ

水色の雲を飛び越えた

 

アポロの馬車は

まだ待っているだろうか

口紅のポエムは

もう届いているだろうか

 

姉と出会った二三歳の頃の、微笑ましい作品。投稿した作品が雑誌に掲載されると、必ず義兄は姉に手渡していたそうだ。

 

むねに千本の樹を

 

果物屋

店先を通りかかるたびに

ぼくの肺はパタパタはねをしばたかせる

 

やわらかい包装紙にくるまれたのやら

無造作に笊に盛られたリンゴのことをおもう

いちように

歯ざわりの果肉のことではなく

あの赤い部分

つやつやの輝く部分だけが

風の みえる全容であるなんて

空にナイフは投げられない

 

(部分がすべてだ

部分のなかに全世界がまるく横たわっている)

 

風が

ひとつの現象としてみぢかに記録されるなら

具象としての風は

やさしく地表をかこみ

季節のフレーズを届けながら

せまい庭にも樹をうえることを吹聴するだろう

 

知識よりも まず

最初に事実だ

組成を喰いあらしてはならない

ぼくらは 忙しい虫

のような時代にさらされても

吹きだまってはいけない

窓ぎわに椅子をのけるように

 

かつて

風はすくなかった と

創世記は云う

むねに千本の樹をもたせよう と付記されて

 

市場の

よくある風景画のなかで

みえないざわめきが

ひとしきりむねのアーケードをゆする

まだ 夕刻に間に合う

 

これは昭和五三年(1978)、三二歳の作。二六歳で結婚し、二八歳で長男、三一歳で長女が生まれ、二児の父親となった充実した時代の作品だ。義兄は、生涯にわたり軽佻浮薄を嫌った人だったが、詩にはユーモアに満ちた心を開いている。

 

きず

 

瓢箪に

酒をいれておいたら

(ついでに こっちの胃壁も緩衝させて)

 

しだいにひょうたんがいろづきはじめた

はじめ枯草色だったものが

褐色になり

やがてあかちゃけてきた

(きかない薬の方が結局安全なんだよ)

 

ひとが酒をのんだときのように

ひょうたんも赤く酔っぱらうのであった

すると ひょうたんにあった傷口のようなものが

とても美しくみえるようになった

(風の刺青じゃないのかねー)

 

ひとの

こころのきずも

かたちのない記憶のどこかで

ひっそりと磨かれる

 

(やっぱりいちばん涼しいのは風の末尾だよ

まだ青いから

書きだしの一行のように気がかりだ)

 

遺稿詩集のあとがきで、姉は義兄との出会いから訣れまでを記し、「どんなに言葉を尽くしても、彼の生きた五七年の証とするには足りません。伝えきれないもどかしさを感じつつも、私に与えられた宿題、彼の遺した詩を編む作業だけはどうにか終えることができました」と書いた。

彼の病気は、肺と腎臓にダメージを与える自己免疫疾患でした。週三回の人工透析を受けながらの闘病生活は三ヶ月に及びました。一日に七百ミリリットルしか水を飲めなくても我慢し、病棟から出ることができなくても、弱音を吐くことはありませんでした。それでも、肺の機能が弱まって次第に呼吸が困難になり、管を入れて酸素を送ることになった日、ベッドの上で初めて私に、「苦しい」と漏らしました。平成十五年五月二十日、彼が残した最後のメモです。

 

涙が止まらない

自分の免疫が自分を縛りつけて身動きできない

何かが狂っている 自分か他もか

多重人格のように どれがほんとの自分なのか

何が不足なのか 少しもわからない

ただ現実に言えることは少しずつ狂ってきているのだ

自分も世間も そして世界も

 

義兄の墓は、瀬戸内の海を見下ろす山の斜面に建っている。穏やかな海面の先には、周防大島と呼ばれる屋代島が見える。故郷の自然の中で、いまでも義兄は詩を書き続けているだろうか。

 

「大ちゃん」の思い出

豆腐鍋で親しまれた居酒屋「大ちゃん」の二代目店主、古野光一さんが亡くなって六年になる。間口一間の店はとうになくなり、隣の焼き肉屋が店を広げた。繁昌亭の効果か、天神橋筋商店街は活気を取り戻し、最近はインバウンドのおかげで賑わいを見せている。

常連客の多くは、店主の古野さんことを親しみを込めて「大ちゃん」と呼んでいたが、屋号でもある「大ちゃん」は、先代の父親である大蔵さんのことだ。私が通い始めた一九八〇年代の半ばは、父と子が二人で店を切り盛りしていた。

現在は廃刊になったが、月刊『大阪人』で連載された「下町酒場列伝」は、後にちくま文庫になった、ノンフィクションライター・井上理津子の出世作だ。井上は平成十三年(2001)に大ちゃんを訪れている。

天神橋筋三丁目の「大ちゃん」。熱くない二代目店主が一人で淡々と切り盛りする店を訪ねた。南森町から天神橋筋商店街を三十メートルばかり北に進んだ右手にひっそりとたたずむ、いわゆる「間口一間」の店。暖簾をくぐり、がらがらと戸を開けた中は、十余席が縦一列に並ぶレトロ空間だった。ひと呼吸おいてから、「いらっしゃい」の声が届く。カウンター台の上には、小さな古びたガスコンロが席数と同じ数だけずらりと並び、つくりつけのこれまた古びた戸棚にアルミ鍋や一升瓶がきちんとおさまっている。壁には人なつこい文字で書かれたメニューの数々。

「生ビールください」

「瓶ビールしか置いてないんですけど」

失礼しました。では瓶ビールを。サッポロビールで喉を潤し、改めて店内を見渡すと、カウンター手前の台の上に黒電話がちょこんとのっているのを発見。プッシュホンが登場する前のダイヤル式。それも、全体に丸くてどっしり感のあるタイプ。今やほとんど見なくなった形のものだ。

「これ?たぶん、親父がこの店をはじめた四十年くらい前のものですわ」。うわっ、すごい電話と言った私に、マスターは、またその質問かといった冷めた面持ちで答えた。

「壊れたら部品がないからもうおしまいやけど、なんとか現役」うおっ、このコンロもなかなかのものと言ったときは、

「これも結構長持ちしてますけど」

三十分経過。じゃこおろし、納豆、スルメ……。名物と聞いてきた豆腐鍋を食して、おいしいですわと言えば、

「そらどうも、普通の豆腐ですけど」。衣被、ダダチャ豆、ムカゴのから揚げといった品書きを見て、珍しいですよねと言うと、

「料理するのが簡単やから」こうなるともう、完全に「しょうもないこと聞いてすみません」なのであります。

井上は、大ちゃんの居酒屋店主とは別の顔も紹介している。大学時代から続けている男声合唱団のメンバーとしての顔と、日本基督教団東梅田協会の運営に携わるクリスチャンとしての活動だ。

ある日、酔いに任せて「君は如何にして基督信徒となりし乎」と尋ねたことがある。ふだんは自分のことはあまりしゃべらないのだが、「母方の祖母の影響かも知らん、じいさんと一緒に、仙台で弁護士やったけど」。ちょっと照れながら、大ちゃんはビールグラスに口を付けた。

ガンを発症して、わずか二年の闘病で身罷った大ちゃんだが、東日本大震災の直後には、不自由な身体を押して被災地に出向き、祖父母が眠る墓や、母方の縁者を見舞ってきたと聞く。大ちゃんが亡くなって「間口一間」の店は姿を消したが、天神橋筋商店街の賑わいは今日も続いている。

 

辺見庸とチェット・ベイカー

新宿のジャズスポット「DUG」のカウンター。ひとりの男が、左手でコーヒーカップを持ち上げている。黒いシャツと破れたジーンズ、メタルフレームの眼鏡、そしておなじみのキャップ。頬はすこし痩せてはいるが、眼光の鋭さは健在だ。

 

PLAYBOY』(平成二十年八月号)のジャズ特集に辺見庸が登場し、チェット・ベイカーを論じている。平成十九年夏の、ニルヴァーナの曲を流したという講演は聞きそびれたが、写真を撮らせるようになったのは何よりだ。没後二十年にあたり、チェット・ベイカーはあらゆる面から見なおされ、聴き直さなければならないという辺見は、こう記す。

 

チェットはある意味で間抜けだった。ジェームス・ディーンばりの風貌と天賦の才で、いっときずいぶんもてはやされたのに、グリーン・イグアナのような顔になるまで五八年も生きてしまったからだ。この点、筆者とてとてもいえたぎりではないのだが、長生きのアーティストや革命家ほど人をいたく失望させるものはない。いわんや、ジャズ・ミュージシャンにおいてをや。

 

因みに、二十代で夭折したジャズ・ミュージシャンでは、ブッカー・リトルクリフォード・ブラウンファッツ・ナヴァロといったトランペッターや、ギターのチャーリー・クリスチャンの名が浮かぶ。ロック界ではジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョップリン尾崎豊ロバート・ジョンソンカート・コバーンたちだ。

 

ソニー・クラークリー・モーガンポール・チェンバースチャーリー・パーカーアルバート・アイラーエリック・ドルフィージャコ・パストリアス………三十代では、ジャズ・ミュージシャンだけでも枚挙にいとまがない。

 

若い頃はチェットを小馬鹿にしていたという辺見は、自らの発病、生死をかけた闘病を機に彼を思い出し、聴き直し、根本から見なおした。その中で、辺見の心を撃ち抜いたのは「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」である。ただし、辺見はチェットを賛美しているのではない。

 

老残のチェットが血涙をしぼるようにうたい、吹くとき、もらい泣きをしない者がいるとしたら、たしかに人非人にちがいない。だが、彼はいつもその手で人を泣かせ、だまし、ヘロインとコカインのためのお金をくすね、ペロリと舌をだしてきたのである。あたかも『悪霊』のニコライ・スタヴローギンのように。ただし、とびきり無教養のスタヴローギンのように。ああ、人はここまで堕ちることができるのか。にもかかわらず、いや、だからこそ、ここまで深くうたえるのか……。私の場合はそうした想いから泣かされたのである。

 

辺見が選んだチェット・ベイカーのベストアルバム五枚は、あのジャケット写真でも知られた「チェット・ベイカー・シングス」をはじめ、ユニバーサルの「チェット」、86年にオランダで録音された五六歳のときの「ラブ・ソング」、「イン・トーキョー愛蔵版」と、死の半年前にドイツで収録されたライブ盤「The Last Great Concert:My Favorite Songs,Vol.1&2」である。

 

あぶない病気になり病室でよこたわっているしかなかったとき、こころにもっとも深くしみたのは、好きなセロニアス・モンクやマイルスではなく、好きでなかったチェットの歌とトランペットであった。最期にはこれがあるよ、と思わせてくれたのだ。猛毒入りの塗布剤のような、はてしなく堕ちていく者の音楽が、痛みをなおすのでもいやすのでもなく、苦痛の所在そのものをひたすら忘れさせてくれた。くりかえすが、彼の音楽に後悔や感傷は、あるように見せかけているだけで、じつはない。

〈人生に重要なことなどなにもありはしない。はじめから終わりまでただ漂うだけ……〉というかすかな示唆以外には、教えてくれるものもとくにありはしない。生きるということの本質的な無為、無目的を、呆けたような声でなぞるチェットには、ただ致死性の、語りえない哀しみだけがある。

 

『槐多の歌へる』

村山槐多の詩文集『槐多の歌へる』(2008講談社文芸文庫)。その巻頭には、彼の代表作である「庭園の少女」と、「尿する裸僧」のカラー口絵が付いている。平成十年頃だっただろうか、私は夭折画家たちの作品収集で名高い長野県上田市の「信濃デッサン館」を訪ねたことがある。暑い季節で、館主の窪島誠一郎が短パン姿で受付にいた。

 

そう大きくはない館内で、槐多の「尿する裸僧」は、ひときわ異彩を放っていた。血の色と、破滅の色と呼ばれたこれがあの「ガランス」なのか。村山槐多は、二二歳の生涯を「ガランス」色で駆け抜けていった。残された、そんなには多くはない詩篇の中に、まさに「尿する裸僧」を謳った詩がある。

 

一本のガランス

 

ためらふな、恥ぢるな

まつすぐにゆけ

汝のガランスのチューブをとつて

汝のパレットに直角に突き出し

まつすぐにしぼれ

そのガランスをまつすぐに塗れ

生のみに活々と塗れ

一本のガランスをつくせよ

空もガランスに塗れ

木もガランスに描け

草もガランスにかけ

□□をもガランスにて描き奉れ

神をもガランスにて描き奉れ

ためらふな、恥ぢるな

まつすぐにゆけ

汝の貧乏を

一本のガランスにて塗りかくせ。

   ※伏せ字の□□は魔羅

槐多の歌へる 村山槐多詩文集 (講談社文芸文庫)

槐多の歌へる 村山槐多詩文集 (講談社文芸文庫)

 

 

中上健次の手紙

月例で行っている読書会で、中上健次の『岬』と『枯木灘』を取り上げた。久し振りに再読して、初めて彼の小説に出会った頃の感動を思い出した。『岬』が第七四回の芥川賞を受賞したのは昭和五一年(1976)。戦後生まれで初の芥川賞受賞と話題になった。

 

『岬』は、後に『枯木灘』『地の果て 至上の時』と書き継がれた「秋幸三部作」の第一作で、紀伊の国・新宮の路地を舞台に、二四歳の主人公・秋幸が、複雑極まる父母や兄姉関係の中で、身内の刺殺事件や腹違いの妹との近親相姦によって、血族への意識をあふれさせる物語である。また、その続編ともいうべき『枯木灘』は翌年発表され、江藤淳や川村二郎、奥野健男、秋山駿、桶谷秀昭をはじめ、多くの批評家の高い評価を得て毎日出版文化賞を受賞するなど、作家としての地歩を占めた初の長編小説だ。

 

論議の中で、中上が「秋幸三部作」で取り組んだのは、いわゆる「父性」、「父権」との格闘であるといわれているが、『岬』で示されるのは、むしろ「母系=母権」というプレモダンなテーマなのではないかという意見が出された。たしかに、この物語の中心は「母」なのだ。

 

中上健次は、平成四年(1992)、四六歳の若さで亡くなった。彼の生涯も描いた作家論や作品論は枚挙にいとまがないが、平成一九年(2007)に上梓された高山文彦の『エレクトラ』は、綿密な取材をもとに中上健次の生涯を描いた傑作評伝である。

 

書名になった「エレクトラ」は、日の目を見ることなく幻となった中上健次の初期習作の名だ。母と姦夫に父を殺されたエレクトラは、弟であるオレステスと結託して母への復讐を企てる。高山は、長い時間をかけた緻密な取材をもとに、この「エレクトラ」を巻頭に据えることで、独自の視点で中上健次の生涯を描いて見せた。

中上健次という作家の登場は、現代文学にとってひとつの事件であったと私は思う。というのも彼は、作家となる運命を背負ってこの世に生を享け、その宿命を誠実に生きて死んだ希有な作家だったと考えられるからである。これを書かなければ生きていけないというほどのいくつもの物語の束をその血のなかに受けとめて作家になった者がどれほどいるだろうか」と書く高山は、そのあとがきに一通の中上健次の手紙を引用している。日付は平成二年(1990)十一月十九日、亡くなる二年前、次女に宛てたものだ。

 

菜穂へ

あいかわらずお父さんは忙しい。部屋の中に閉じこもって、小説の原稿を書いている。昔になってしまうが、ちょうど菜穂と同じ年のころ、お父さんは田舎の高校生だったが、将来の希望として、小説家か劇作家か詩人になりたいと考えていた事を思い起こす。いま、なりたかった希望の職業についている。もちろん菜穂もそうなように、もっといろいろなりたいものはあった。オペラ歌手、相撲取り。今思うと苦笑を禁じ得ない。(中略)お父さんは、おまえの名前を菜穂と名づけるとき、この子と、この子の生きる世界に、稲穂と野菜があまねく行き渡りますように、天にいのって、名づけた。お父さんの祈りは天に通じているだろうか?

菜穂は飢えてはいない。ではどうして、他から飢えた子供の泣き声が聞こえるのか。菜穂はその矛盾を考えてほしい。問題があるなら、それを解いてほしい。もし不正義があり、そのためだというなら、不正義と戦って欲しい。しかし戦いは、暴力を振るうことだろうか? 違う。人間の存在の尊厳を示すことだ。そのためには、英知が要る。豊かな感受性が要る。菜穂が、この学校で学ぼうとしていたことは、不正義と戦う本当の武器、つまり人間の存在の尊厳を示す方法だったのだ。頑張れ。心から愛を込めて、声援を送る。

 

「元気出さな」

遊びをせむとや生まれけむ

戯れせんとや生まれけん

遊ぶ子供の声聞けば

我が身さへこそ動がるれ

梁塵秘抄

 

『遊びをせむとや生まれけむ 遊びの水墨画』は、平成二一年(2009)一〇月に亡くなった青野健さんの遺稿作品集である。住み親しんだ奈良の地を愛する前口上には、渓流の釣りを愛し、酒を愛し、自然を愛し、そしてなによりも人を愛した健さんの想いが込められている。

 

神の時代からある丘陵はそのままの姿でよこたわっているし、

清涼な渓流はどこまでも澄んでいて、

天然の山女魚が泳いでいるし、

ぼくたちは休みの日、無心に毛鉤を振る。

 

湧水につけておいたビールはほどよく冷えていて、

その日の釣果を前に乾杯の夜がやってくる。

渓を走る水音、樹々の風の囁き、小鳥たちの讃歌。

ぼくたちは五感で生きていることを実感する。

 

ゆっくり ゆったり 脇目ふりふり。

渓で出会った山女魚や山菜と遊び戯れる。

土の恵みに感謝する。

 

青野健さんは、昭和九年(1934)大阪府に生まれた。昭和二八年(1953)大阪市立工芸高校図案科を卒業し阪急百貨店に入社、宣伝部に配属となった。その後、グラフィックデザイナーとしての活躍を経て、平成十一年(1999)にクリエイティブディレクターで退社するまで、ブックデザインやイラスト、挿画、揮毫など幅広い分野で活躍。平成三年(1991)から平成二一年(2009)までは、朝日カルチャーセンターで「遊びの水墨画教室」の講師を務めた。

水墨画家としての活動では、昭和六二年(1987)に初の個展を開き、ニューヨーク・RIVERDALE GALLERYをはじめ、父である日本画家・青野馬左奈との親子展など、病と闘いながら亡くなるまで作品を発表し続けた。

 

釣りが大好きです。

釣った魚を食べるのも好きです。

魚といっしょに風景を釣って、

少年の日に戻ります。

 

お気に入りの作品にもあるとおり、年を重ねても、少年の心を持ち続けた人だった。七一点の作品を収めたこの本の掉尾を飾るのは、私も大好きな小鳥が横目で語りかける「元気出さな」である。

 

おたく

落ちこんだら

あきまへん

元気

出さな

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入澤美時さんの思い出

一期一会。

たった一度の出会いだが、忘れられない人がいる。その人の思想に深い共感を覚え、時代に抗して格闘する姿を遠望してきた。平成二一年(2009)に急逝した入澤美時さんは、そんな人だ。

 

病に倒れる直前までWEBで連載された、スローネットのインタビューから彼の経歴を転載させていただく。著書に『考える人びと――この10人の激しさが、思想だ。』(2001双葉社)、『東北からの思考』(森繁哉との共著、2008新泉社)がある。 

 

入澤美時プロフィール

       昭和二二年(1947)、埼玉県児玉郡神川町に生まれる。

       昭和四一年(1966)、東京都立新宿高校卒業。

       昭和四二年、美術出版社入社。

       昭和五二年(1982)、入澤企画制作事務所を設立。

       昭和六二年(1987)、長良川河口堰反対運動に携わる。

       平成七年(1995)、『季刊 陶磁郎』創刊で編集長に。

       平成十三年(2001)、

   『考える人びと――この10人の激しさが、思想だ。』を上梓。

       平成十八年(2006年)、

       「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2006」の

    選考運営に関わる。

       平成二十年(2008)、『東北からの思考』を上梓。

      

私が彼に出会ったのは、長良川河口堰反対運動が全国規模に拡大した昭和六三年(1988)の頃だったと思う。入澤美時という名は、前年四月に創刊された渓流釣りの雑誌『季刊ヘッドウォーター』の編集者として知り、そのムック本の作りも斬新だった。当時のことを、入澤さんはこう振り返っている。

 

事務所をオープンしたら、ありがたいことに友人たちからたくさんの仕事が舞いこみました。イワナ・ヤマメ釣りに狂っていましたし、溪流釣りのシーズンが終わると海釣りもしていました。当時の釣りの本は、レイアウトもなにもあったものではないくらいひどいできでした。だったら自分でつくってしまえばいいと始めたのが、『溪流フィッシング』(山と溪谷社)というムックです。これが大当たりしてしまいました。そのあと、自分にとって理想の釣り人であった植野稔さんの本を出そうと企画して、『源流の岩魚釣り』(冬樹社)という単行本も出しました。これもよく売れました。それからは、依頼の仕事やコマーシャルの仕事は一切ことわって、自分が立てた企画の出版だけをやると宣言したのです。

こんなふうにイワナ・ヤマメ釣りに没頭し、七~八年で百冊近くものイワナ・ヤマメ釣りだけの書籍や雑誌(ムック)を出し続けたのも、子ども時代に柿生の川遊びをしたこととつながっているのでしょう。このイワナ・ヤマメ釣りで、北海道から九州まで、全国をめぐりました。自然生態系に向き合うだけでなく、人びとの暮らしというものもたくさん見てきました。どんな作物をつくっているのか、どんな産業があるのか、などです。

 

私が再び入澤さんに注目したのは、やはり新雑誌の編集者としてだった。平成十三年(2001)八月、「事態とメディア、生命の現在を透析するグラフィックデザイン批評誌」と銘打った季刊誌『d/SIGN』が創刊された。戸田ツトム鈴木一誌アートディレクションを担当し、入澤美時が責任編集に加わった野心的な編集や紙面デザインを試みた専門誌だった。創刊号には、装幀家菊地信義がインタビューに登場し、連載陣には加藤典洋が建築時評を、北田暁大広告批評を担当して名を連ねている。創刊については、以下の文章が掲げられていた。

 

IT…という言葉が、本来の先鋭性ではなく、異様な保守性をさえ感じさせる二一世紀初めての夏。アナログ/デジタルと体位させながら進化を測定しようとするいわれのない二元論の悪夢に、デザインをはじめとする多くの文化や思考が「停止」の危機に曝されています。我々は物事を漠然と捉える、また事象を定則的に客観視しようとするいずれの心性をも持ち合わせ、たとえばデザインという営為とともに暮らしてきました。そのなかで進化は常にささやかな技術と哲学の冒険を企ててきたはずです。奇しくもコンピュータ社会が「標準」の覇権とともに進まなくてはならない宿命を持ってしまった以上、あるとき我々の心は電子社会の限界を見出すことでしょう。それは、デザインにとって先鋭とは何か、と再び問い直す時に違いありません。(中略)三者の編集によって創刊された本誌は、特定の指標に思考を収斂させることなく相互間に生じる同調・対立・拮抗・干渉・違和感を誌面に点描し得る磁場として差し出されています。デザインへの動力の場であること、その場に立ち会うべく[季刊 d/SIGN (デザイン)]を創刊します。

 

平成十二年(2000)にはNTTドコモIモードの加入者が一千万人を突破し、パソコンの国内出荷台数が過去最高になり、「IT革命」が叫ばれた時代だった。その『d/SIGN』に、入澤さんは「デザイン発生の場・連載第一回」として「いまなぜ、村上一郎か」を書いているが、そのことが私には衝撃だった。

 

恋闕、魂魄、草莽、翹望、含羞、武断、慨言、憤怒……。これらの言葉は一体、死語なのであろうか。いまという時代において、意味をもたないものであろうか。これらの言葉を思惟することは、村上の思想が現在、何であるかを考えることに等しい。

 

「いまなぜ、村上一郎か」。入澤さんの、ともすれば時代錯誤の言説と受け止められかねない試みは、しかし一方で、網野善彦加藤典洋森山大道吉本隆明などとの対談集『考える人びと――この10人の激しさが、思想だ。』と共鳴している。

 

高校二年から三年、浪人時代と、カント、ヘーゲルマルクスニーチェフッサール…、レーニン、トロツキー毛沢東ゲバラ……、ドストエフスキーからヘンリー・ミラー、ビートジェネレーション…、サルトルメルロー・ポンティ、カミュからヌーヴォー・ロマン……、そして日本の吉本隆明埴谷雄高谷川雁…とずっと読んできました。そのとき学生運動の渦中でしたから、本当に「日本に革命を起こそう」、そのことだけしか考えていませんでした。日々、そのことだけを考えて生きていました。だから、大学にいくのをやめて、一人で早く食べられるようになりたかったのです。僕の基本的な考え、思想は、そのときからなにも変わっていません。いまも、「日本を変革したい」と、本気で思っています。ただ「革命」が、「変革」という言葉に変わったかもしれません。しかし、もっともっと現在の方が、本格的なものになっています。きっと、元女房のいう通りなのでしょうね。「なにかを変えたい」というのは、僕の性(さが)なのかもしれません。きっと死ぬまで、こうやって生きていくのだと思います。

 

森繁哉との共著『東北からの思考』を上梓した入澤さんは、『d/SIGN』最新号で「地誌・地政学の可能性」の連載を始めたばかりだった。「日本を変革したい」と、本気で思っていた入澤さんが描いていたのは、柳田国男折口信夫を通して構築する新たな民俗学ではなかっただろうか。