無名鬼日録

読書にまつわる話を中心に、時事的な話題や身辺雑記など。

三浦雅士の漱石論

三浦雅士が渾身の書『出生の秘密』(2005講談社)を世に問うた時、その本が言及するスケールの大きさには圧倒された記憶がある。私たちの読書会でも取り上げ、日本の近代文学の新たな解読なのだろうかと議論を交わした。三浦が俎上に載せた主な作家と作品は、丸谷才一『樹影譚』、国木田独歩『運命論者』、志賀直哉『暗夜行路』、中島敦『北方行』と芥川龍之介夏目漱石の作品群だ。

これらの作品の精緻な読解に加え、ラカン精神分析、パースの記号論、そしてルソーやヘーゲルが参照される。当時、朝日新聞の書評で中条省平は書いている。「出生の秘密を抱えた人間は、自己意識が過敏になる。いや、鋭敏すぎる自己意識が出生の秘密を引きよせるのだ、と三浦氏はいう。出生の秘密とは、自己意識の発生を映しだす鏡なのだ。ヘーゲル流にいえば、自己意識の誕生とは人間の誕生にほかならない。これが本書の眼目となる」。

そして三年後、三浦雅士の『漱石 母に愛されなかった子』(2008岩波新書)が上梓された。『青春の終焉』(2001講談社)に始まり、『出生の秘密』に続く三浦の漱石論だ。漱石は、母の愛を疑うという根源的な苦悩を生涯にわたり抱え続けた。三浦は、そのモチーフをつぎのように記している。

自分は母に愛されていないのではないかという疑いは、子供にとっては死を意味する。無を意味する。親の庇護なしに生きていくことはできないからです。傍から見て、およそ子供のことなど何も考えていないのではないかと思えるような母親のことでさえ、子供は無条件に信じている。ひたすら信じている。哀れなほどです。にもかかわらず、母の愛を疑い、その疑いを覆い隠す。どうしてそんなことをするのか。どうもそれは、人間というものの仕組みに深くかかわっているように思えます。漱石を手がかりにそのことを考えてみたい。漱石という作家は、本人が意識していたどうかはともかく、そのことについて集中的に考えていたと思われるからです。

母に愛されなかった子ー『坊っちゃん

捨て子は自殺を考えるー『吾輩は猫である

登校拒否者の孤独ー『木屑録』と『文学論』

母を罰するー『草枕』と『虞美人草

母から逃れるー『三四郎』『それから』『門』

母に罰せられるー『彼岸過迄

向き合うことの困難ー『行人』と『こころ』

孤独であることの意味ー『道草』

そして承認をめぐる闘争ー『明暗』

主要な作品が、それぞれにテーマを掲げて俎上に載せられる。見出しを一望するだけでも刺激的だ。特に、著者があとがきでも断りを入れているように、作品の引用をすべて地の文に流し込んでいるのが特長だが、これは批評というより、一遍の物語を読み通す楽しさがある。

彼岸過迄』を論じるくだりにこんな一節がある。

母に愛されなかった子という漱石人生上の主題などともっともらしい言葉を用いましたが、要するにそれは、自分は母に愛されていなかったのではないかという苦しい問いによってできあがってしまった心の癖、行動の癖である。分かっちゃいるけどやめられないと言うが、癖というものはそういうものです。一般に個性と言われているのはこの心の癖のことだ。昔、たとえば江戸時代には、個性などという洒落た言葉はなかった。そのかわりに癖が強いと言っていた。明治も終わりに近づいて、それが、個性が強い、個性的だという形容に変わっただけです。

三浦はあとがきで、「漱石が母に愛されていなかったのかどうか、漱石自身に聞いてみなければ分からないなどということはありえない。自分の心の歴史を誠実に書いてみるがいい、自分がいかに自分を知らないか驚くだろう、と書いたのは二十九歳の漱石、熊本の第五高等学校教授の漱石である。つまり、漱石自身、漱石について何も知らないと告白しているのです」と書き、漱石論は数多の数に上るが、かつて漱石がそうであったように、漱石は今なお謎として生き続けており、「漱石だけではない。誰でもそうなのだ。むしろ、それこそ文学というものの基本的な仕組みであると言っていい」と述べている。

母に愛されなかった漱石だが、その世界は無限大に広がっていく。そして、十代に読んだ作品が年を重ねて読むたびに、また違った姿で私の前に立つ。

 

 

『荒地の恋』

平成一九年(2007)九月に上梓された、ねじめ正一の『荒地の恋』は、赤裸々でスキャンダラスな描写も多々あり、『荒地』の同人たちも実名で登場するなど話題になった。上梓の直後には重松清朝日新聞の書評で取り上げた。

「たった、これだけかあ」と心の中で問う声に、「いいじゃないか、これで」と応える詩人の姿から、この長編評伝小説は始まる。主人公は北村太郎。表題の「荒地(あれち)」は、彼が戦後間もない頃に仲間たちと創刊した同人誌の誌名でもある。妻と子を水難事故で亡くした北村は、再婚をして、子どもたちも一人前に育ち、おだやかな日々を過ごしている。しかし、五三歳のある日、北村はふと自問する。仲間たちに比べてあまりにも寡作なことへの「たった、これだけかあ」と、ささやかな家庭の幸福への「たった、これだけかあ」――二つのつぶやきに、「いいじゃないか、これで」と自答するのは、夫としての、父親としての、あるいは新聞社の勤勉な校閲部員としての北村太郎である。

昭和二二年(1947)に創刊された詩誌「荒地」には、「Xへの献辞」と題した創刊の辞を執筆した鮎川信夫をはじめ、田村隆一、中桐雅夫、三好豊一郎黒田三郎加島祥造、野田理一、衣更着信、北村太郎高野喜久雄吉本隆明といった面々が加わった。彼らは、戦前のモダニズム詩やシュルレアリスム詩に影響を受けながらも、大東亜戦争の体験を経て批判的に詩法を問い直し、独自のスタイルを確立したが「たった、これだけかあ」と自嘲するように、旺盛な詩作を続ける鮎川や田村らに比べ、北村太郎は寡作でいかにも地味な存在だった。その北村が五三歳の時、田村の妻「明子」と恋に落ちる。家庭も職場も棄て、明子との生活を選んだ北村を待っていたのは、夫の裏切りに怒りを抑えきれない妻治子の自壊と、明子も北村も失いたくないという、常軌を逸した田村の執念だった。

その「いいじゃないか、これで」は、一人の女性との出会いによって粉々に砕け散ってしまう。北村は道ならぬ恋に落ちた。妻子を捨てて家を出た。しかも、奇しくも最初の妻と同じ「明子」という名前を持つ恋の相手は、高校時代からの親友・田村隆一の四度目の妻だったのだ。あらすじだけをとりあげれば、スキャンダラスな話である。北村と明子の恋の顛末はもとより、酒仙詩人と謳われた田村隆一の言動もまた、世の常識や良識からは大きくはずれている。しかし、家庭という靴を脱ぎ捨て、素足で不倫の荒地を往く北村太郎には、言葉があった。家を出てからの北村は堰を切ったように詩を次々に発表し、高い評価を得る。一方で、妻を奪われた田村隆一もまた、どうしようもなく詩人だった。

「家庭人としての日々をまっとうしているからこそ詩が書けなかった」北村を評し、自らも詩人であるねじめは書く。〈詩は道楽から生まれない〉と。

夫を生かしているのは自分の支える「生活」であるという自負が、妻達を生かしている。毒々しいまでのその自負が蔑ろにされることで、既に壊れていた明子に続き、北村の妻も壊れた。北村は赤貧を十字架のように背負い、田村は酒で身を持ち崩し、体を張って妻を手繰り寄せる。「生活」を舐めたことで二人とも生活に復讐されたが、代わりに「生きた言葉」の湧き出す、血の通った人生も手にした。しかし妻達は、舐められても自ら裏切っても、なお夫の帰る気配に耳をそばだてるのである。

荒地の恋』で、強く私の印象に残ったのは、さりげない心遣いで北村と明子を見守る鮎川信夫の存在だ。ある晩、北村は、睡眠薬を服用した明子から自殺をほのめかす電話を受ける。あちらこちらに手を尽くし、その甲斐あって無事保護された明子を迎えに行こうとする北村に、横浜駅の助役はこう語りかける。

「他人に知らせるというのは、ようするに本人は止めて貰いたいんじゃないでしようかね。今回の方も睡眠薬を飲んで線路沿いを歩いていたそうですしね。名越トンネルの手前はたしかにほかの場所より線路に近いですが、睡眠薬でフラフラになって乗り越えられるほど低い柵でもないですしね」。そう言うと、助役は気の毒そうな目で北村を見て笑ったのであった。

本当に自殺したい人間は、他人に予告などはしない。明子の言葉に乗せられて右往左往した北村を、つまり、とんだお人好しだと笑っているのだ。

「ふん。言いたいやつには言わせておけばいいさ」鮎川が大きな声で言った。「そいつらは人間の命ってものをわかってないんだ。人間の生き死にを軽く考えているんだ。俺はそういうやつが大嫌いだ」「そうだな。俺も嫌いだ」「おい。君は明ちゃんの面倒をちゃんと見ろよ。明ちゃんのことを親身で考えられるのはお前だけなんだからな」怒ったような声で言うと、「じゃあ、またな」という挨拶で鮎川の電話が終わった。そしてそれが、鮎川からの最後の電話になった。

映画監督の西川美和は「北村や田村達の生き方を描いたこの作品は、生活とは、自由とは、夫婦とは何なのかという問いを、詩人に限らず、人生を歩む者に等しく迫る」と文庫本の解説で書いている。『荒地』の仲間として若い頃から北村や田村と親交のあった鮎川は、この事件のあと急死する。私生活を明かさず、独身で最愛の母・幸子との同居生活を送っていたと思われていた鮎川だが、昭和三三年(1958)三八歳の時に英文学者最所フミと結婚している。そんな鮎川が、「おい。君は明ちゃんの面倒をちゃんと見ろよ。明ちゃんのことを親身で考えられるのはお前だけなんだからな」と北村に言った真意はどこにあるのだろうか。

 

鶴見俊輔『悼詞』

平成二〇年(2008)に編集グループ〈SURE〉から刊行された『悼詞』は、この半世紀あまりの間に書かれた鶴見俊輔の追悼文集だ。巻頭には「無題歌」として一遍の詩が掲げられている。

 

人は

死ぬからえらい

どの人も

死ぬからえらい。

 

わたしは

生きているので

これまでに

死んだ人たちを

たたえる。

 

さらに遠く

頂点は

あるらしいけれど

その姿は

見えない。

 

この本には、銀行家の池田成彬(昭和二五年没)からマンガ家の赤塚不二夫(平成二〇年没)まで、一二五人にのぼる人たちへの追悼がつづられているが、ありきたりの悼辞集とは一線を画している。編集グループ〈SURE〉を代表して、北沢街子は書いている。

哲学者・鶴見俊輔さんは、六〇年あまりにわたる文筆活動のなかで、さまざまな分野の実に多くの人たちとの出会いを重ねてこられました。国の違い、また、職業や日ごろの信条の違いをまたいで、その広がりは一つの現代史を織りなすものとも言えるでしょう。とはいえ、出会いを重ねることとは、いずれは別れを重ねることをも意味しました。鶴見さんは、これまでの人生で、おおぜいの知人・友人たちが逝くのを見送ることにもなったのです。これまでに鶴見さんは、一二五人におよぶ人びとへの追悼文を雑誌・新聞などに発表してこられました。そのすべてを編集・収録したのが本書『悼詞』です。

鶴見さんによる追悼の文章は、型にはまった美辞麗句とは無縁です。むしろ、心をこめて、ときに率直な批判も含み、一人ひとりの人柄・仕事・そのおもかげを刻んでいきます。なぜ、私たちは、ここにこうして生きているのか──。そのことを考える上でも、忘れがたい道標となる、ほかに例のない大きな紙碑がここに置かれます。ゆかりの皆さまに、発刊を前にして、ご案内さしあげます。

また、詩人の正津勉東京新聞の書評で鶴見俊輔の交友の広さにふれてこう記している。

思想が違っても、その人の生き方に共鳴すれば立場を超えて敬意をはらう。鶴見さんの流儀であり、仕事の中心を担い多元主義的な対話を広めてきた「思想の科学」の精神である。常に交差点に立って社会や人間を大きく見てきた人らしい志と交流の幅だろう。「巻頭詩 無題歌」に「人は/死ぬからえらい/…わたしは/生きているので/…死んだ人たちを/たたえる」と書く。

人をいたむことは、人をたたえること。「この人は先達としていつも私の前にあり、その学恩への感謝はつきない」という思想史家の丸山眞男。「ながいあいだ、一緒に歩いてきた。その共同の旅が、ここで終わることはない」という作家の小田実。逝った人の仕事と人柄を刻むその筆は温かい。

言うまでもないが、悼詞は生者にのみ可能な行為だ。誰も自己への哀悼を綴るわけにはいかない。死ぬのはいつも他人なのだから。

星野智幸『焔』

星野智幸の『焔』(2018新潮社)は、九つの短篇を十の掌篇でつないだ作品集だが、このほど「第五四回谷崎潤一郎賞」を受賞した。本の腰巻きには「連関する九つの物語がひとつに燃えあがる。」と謳われている。彼の小説とは、平成二三年(2011)に第五回大江健三郎賞を受賞した『俺俺』に出会い、『呪文』(2015河出書房新社)、『星野智幸コレクションⅠ・スクエア』(2016人文書院)と読んできた。

 

星野は、政治や社会問題に積極的に関わり、そのテーマを作品に取り込み、「ディストピア」を描く小説として評価されてきた作家だが、今回の『焔』は少し趣が異なっているという。まず九つの短篇は、あらかじめ連作短篇集として意図されたものではなく、一番古いのは平成二二年(2010)に発表され、以降二九年まで媒体も様々に発表されたものだ。それらを十の掌篇でつなぎ一つの作品として上梓した理由について、星野は新刊JPのインタビューで答えている。

 

当初は普通に短編集としようと思っていたのですが、読み返したらどの短編も非常に世界観が共通していたといいますか、あるテーマが浮かび上がる感覚がありました。そこで、単なる短編集ではなく全体で一つの世界像を描いている作品として考えて、各作品の間をつなぐ語りを入れました。

 

九日の間続くことになる四十度越えの日々が始まったのは、その年の八月六日だった。午後一時過ぎに観測史上初めて東京で四十度を記録したのちも、気温は上昇し続け、二時間後には四十二・七度に達した。湿度も八十パーセントを下ることはなく、空は晴れているのに白く霞んでいた。

これは巻頭に収められた「ピンク」の書き出しで、今年の夏の異常な暑さを振り返ると、あながち大げさな表現だとは思われなくなる。自分が扇風機になってしまえば良いと、炎天下ぐるぐる自転したあげくに熱中症になって死亡する高校生も出てくる。

 

「クエルボ」は、いつの間にかカラスになった男が主人公だ。そもそもクエルボとはテキーラのブランド名で、若い頃からデートのたびに「ホセ・クエルボ1800アニェッホ」を飲む男を、妻が揶揄して名づけたニックネームである。表現の奇抜さを超えて、こんな男がいてもおかしくないと共感できる傑作だ。

 

「人間バンク」には、「人間センター」という名のコミュニティが扱う地域通貨「人円」が出てくる。理事長の女性・宝梅さんは主人公の寒藤にこう話す。「だからここではね、人間中心に戻してるの。お金で物事の価値を計るんじゃなくて、人間で計る。基準は人間。お金の価値は、イコール命の価値。仕事というのは、どれだけ命を使ったか。つまり、お給料や稼ぎは、命の価値をあらわしてるんです。浪費したら、自分の命を減らすことになるんですよ。これから貸し出す十人万円も、じつは寒藤さんの命の一部にほかなりません。なので、きちんと約束通りに返済しないと、寒藤さんは自分の命の一部を取り戻せなくなります。それぐらい、重みがあるんですよ」

 「ピンク」

 「木星

 「眼魚」

 「クエルボ」

 「地球になりたかった男」

 「人間バンク」

 「何が俺をそうさせたか」

 「乗り換え」

 「世界大角力共和国杯」

一見すると脈略のないバラバラのピースが、読み終えると間違いなく一つの「現在」に結ばれる。「文学に政治を持ち込め!」(2017図書新聞WEB版)と断じる星野の会心の一作ではないだろうか。

 

 

 

 

 

マリオ・ジャコメッリ

白、それは虚無。

黒、それは傷痕だ。

 

イタリアの写真家マリオ・ジャコメッリの言葉だ。彼は、一九二五年にイタリア北東部のセニガリアで生まれ、アマチュア写真家として独自の世界を築き上げて二〇〇〇年にその生涯を閉じた。

ジャコメッリの作品のほとんどはモノクロームで、白と黒のコントラストを極端に強調する。また、あえて手ぶれやピンボケを生かしたり、ときには複数の写真を合成させている。

「ジャコメッリの芸術は深い蠱惑の森である」と、日本初の写真展に寄稿した辺見庸は、称揚する。「ジャコメッリの作品はおそらく写真をこえてひろがる他のアートにくらべさらに心的で先験的な芸術にちがいない。彼はまた、ここが肝心なところなのだが、たそがれゆく森の奥の底なし沼にも似た、人間意識のあわいに浮きつ沈みつする、いわゆる〈閾〉の風景をもとらえようとする。なんという大胆なこころみであろうか。こうした冒険はしばしば、文学や絵画で先権的になされてきたのだが、ジャコメッリは写真映像によりジャンルの垣根をなんなくこえて、詩以上に詩的内面、絵画よりも絵画的深みを光の造形に植えつけた」。

平成二十年(2008)五月二五日に放送されたETVの番組「私とマリオ・ジャコメッリ」で、辺見は、代表作であるシリーズ「スカンノ」からひとつの写真をあげ、ジャコメッリとの出会いについて語っている。

「何年も前、旅先でふと眼にしたジャコメッリの作品をずっと忘れられずにいた。黒い古風な衣装を着た人々と、一人の少年が写っているその作品は、まるで異界のようなまがまがしさを感じさせて、体の奥に刺青のように染みついた」。

辺見は、一時は生死の境をさまよった自らの闘病体験もふまえ、「人はいずれ死すべきである」というのが、ジャコメッリ終生のテーマだったのではないだろうか、という。

 

私にもっとも衝撃だったのは、「ホスピス」と題されたシリーズだった。ジャコメッリは、故郷の村の老人たちが暮らす「ホスピス」で、三十年間にわたって写真を撮り続けた。死の床に横たわる姿を、カメラに向かいうつろに笑いかける姿を、そして死者の顔を。しかも、「フラッシュをたいて」。

衝撃を受けたのは確かだが、残酷であるとは思わないのはなぜか。ジャコメッリの世界が、「人間意識のあわいに浮きつ沈みつする、いわゆる〈閾〉の風景をもとらえようとする」ものだからなのだろうか。

私とマリオ・ジャコメッリ―「生」と「死」のあわいを見つめて

磯﨑憲一郎の文芸時評

NHKの連続テレビ小説半分、青い。」を観ていて、どうしても覚えてしまう違和感、という表現では足りない、ほとんど憤りにも近い感情の、一番の理由は、芸術が日常生活を脅かすものとして描かれていることだろう。漫画家を目指すヒロインは、故郷を捨てて上京する、そのヒロインが結婚した夫は、映画監督になる夢を諦め切れずに妻子を捨てる、夫が師事する先輩は、自らの成功のために脚本を横取りしてしまう・・漫画や映画、そして恐らく小説の世界も同様に、生き馬の目を抜くような、エゴ剥き出しの競争なのだろうと想像している人も少なくないとは思うが、しかし現実は逆なのだ。

 

磯﨑憲一郎は八月の朝日新聞文芸時評をこう書き出す。「半分、青い。」は私も観ているので、磯﨑の憤りの視点に虚を突かれた。磯﨑は続ける。

 

故郷や家族、友人、身の回りの日常を大切にできる人間でなければ、芸術家には成れない。よしんばデビューはできたとしても、その仕事を長く続けることはできない。次々に新たな展開を繰り出し、視聴者の興味を繋ぎ止めねばならないのがテレビドラマの宿命なのだとすれば、目くじらを立てる必要もないのかも知れないが、これから芸術に携わる仕事に就きたいと考えている若い人たちのために、これだけはいって置かねばならない。芸術は自己実現ではない、芸術によって実現し、輝くのはあなたではなく、世界、外界の側なのだ。

 

これをまくらに、磯﨑は保坂和志の短篇集『ハレルヤ』(新潮社)を取り上げ、愛猫との別れの日々を綴った表題作について、敬意のこもった批評を行うのだが、私にとって最も印象深く感じられたのは、カフカ箴言を引用した締めくくりの一節だった。

 

デビュー以来の保坂和志の全著作を読んできた一人として、ここ数年の作品はシンプルに、ストレートに、より融通無碍に書かれていることを強く感じる。「小説は読んでいる行為の中にしかない」というのは、この作者自身のかつての言葉だが、近年の作品は読後の感想や批評も寄せ付けない、それを読みながらただ深く感じ入るしかない、最強の小説と成り得ている。そして何よりも作者の作品では、全ての芸術家の導きとなる生き方が示されている、「おまえと世界との闘いにおいては、かならず世界を支持する側につくこと」というカフカの教えが、ストイック且つ大胆に、実践されている。

 

磯﨑が、ここで一風変わったカフカの教えを引用するのは、保坂のユニークな長編小説『カフカ式練習帳』(2012文藝春秋)を踏まえた上のことなのだが、私は加藤典洋が昭和六三年に刊行した批評集『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』(1988筑摩書房)を思い起こした。そのタイトルの意味について、加藤は「要するに、対立を自分の中に持ちこめ、そうすることで、分かりやすい世界がすべてなくなり、物事を考える理由が全て自分のものになる、とそういうことだと思うのです」(週刊読書人ウェブ2018)と語っている。

 

「芸術は自己実現ではない、芸術によって実現し、輝くのはあなたではなく、世界、外界の側なのだ」。磯﨑は、たしか商社マンと小説家との二足のわらじを脱ぎ、現在は東京工業大学で教壇に立っている。磯﨑が力を込めるこの言葉は、学生たちに向けたメッセージでもあり、個(内面)と世界(社会・現実)との関係を考えさせられる大切な視点ではないだろうか。

 

落暉と青木先生

「雲こそ吾が墓標 落暉よ碑銘をかざれ」

 

阿川弘之の『雲の墓標』に出てくるこのエビグラフは、主人公である海軍予備学生吉野次郎が、特攻出撃にあたり、友人鹿島に宛てた遺書の一節である。某日、居酒屋を出て大正橋の欄干にもたれ、川を渡る風に吹かれていた。酔眼をこらしてみると、落暉はまさに今、ドーム球場の陰にあった。

 

先刻の議論の中身も、酒肴の名も思い出せないのに、半世紀以上も前の記憶が、いきなり甦る。昭和四十年(1965)の春、私は高校生になった。私が入学した府立阪南高等学校は、大阪市の南のはずれにあり、ベビーブーマーのために急造された高校のひとつで、歴史も伝統もなく、ガラス張りの校舎のモダンさだけが取り柄だった。

もうひとつ取り柄をあげれば、教壇に立つ先生達が若かったということだろうか。校長を筆頭に、伝統校に追いつけを叫ぶ進路指導の担当が、国公立大学や有名私大への進学率アップに狂奔する中で、大学卒業間もない先生達は兄貴分のようにおおらかだった。

宿直室を訪ねた私たちに、阿川弘之の『雲の墓標』の一節を、遠い目をして語ってくれたのは、現代国語を講じた青木三郎先生だ。「詩の同人雑誌を作りたいので、顧問になってください」。ぶしつけな要望に快く応じた先生は、用度課に掛け合って用紙の手配やガリ版印刷機の使用許可も取ってくれた。

著名な漢詩から誌名を拝借した『鞦韆(ぶらんこ)』という同人誌は、各号を五〇部ほど印刷して配布したが、二年の秋に第五号を刊行して終焉した。青木先生は、とても詩作品とは言い難い私たちの悪戦苦闘を励ますように、時には「ぼくにも書かせろよ」と、自ら書かれた詩を寄稿してくれた。

 

ぼくは死んだ―――大学の日に  

 

果てしない夜に

ぼくは死んだ

 

うそのように簡単に

ぼくは死んだ

 

醜い肉体と心とを晒し

疲れ果てて

やがて来る亡びの日に耐えかねて

ぼくは死んだ

 

おお

退廃の極みよ

 

青木先生は、神戸大学で専攻された日本中世文学の研究を続けるため、北野高校夜間部に籍を移し、二足のわらじを履く生活をスタートされた。青臭く、生硬な文学談義に付き合ってくれた先生との出会いは、私にとって、荒川洋治のいう「文学の門」と言えるのかもしれない。